2月 21 2018
シリウスファイル解説—マクロ宇宙も単なる時空として見ちゃいけない
最近、SU(2)がらみで話しているメビウス的ねじれを持った空間構造だけど、人間が世界を物質的対象として見ている限り、本質は絶対に分からんよ。それらは外的なものではなく、内的なものだからね。つまり、僕らの持続空間の構造(無限遠点を含む空間構造)に由来しているということ。で、空間のこうした捩れの層はミクロの素粒子世界だけじゃなく、マクロの太陽系空間にも多重に入り込んでいる。
当たり前の話だよね。地球の自転にしたって、そこで回っているのは単なる3次元の球体ではなく、人間という観測位置、つまり、無限遠点を無数貼り付けた球体が回っているわけだから、そこにもSU(2)に類似した空間構造が隠されていると考えないといけない。
例えば、1年は12ケ月。1日は24時間。なぜ古代人たちは1日を12時間としなかったのだろうね? 黄道だって12宮。普通なら、1日も12分割して12時間としたいところ。しかし、時計の短針は2周回らないと地球の一回転を表せない。ひょっとして、古代人たちは、SU(2)的感覚(1回転が720度回転の意味を持つ)を普通に持っていて、地球の1日の中にそれを見ていたとしたら。。
OCOT情報も、昼と夜は「対化」の表現だと言っていた。昼は人間の内面で、夜は人間の外面の現れだってこと。確かに、人間は昼間は客観世界(延長)の中で生き、夜は主観世界(持続)に生きるのが基本。これは表相が等化された世界と、表相を中和した世界(表相の等化を無効にする)の関係と言っていいかもしれない。
僕らの世界の見え方も、ある意味、昼と夜でできている。一個の物であろうが、自分の周囲であろうが、見える部分と見えない部分の二つに割られているよね。全体を知るには、どのみち想像力を使って意識を反対側へと回さないといけない。
こうした意識における回転と、地球の回転は無関係じゃない、というのがOCOTの言い分。月の公転・自転だってそう。
そんなグルグルを念頭に置きながら、次の交信記録を読んでみてほしい。
●交信記録19940320
地球の一自転、すなわち一日とは何を意味するのですか。
精神が精神を交差する位置です。
地球に対する月の公転と自転の周期が全く同じなのは付帯質の内面と付帯質の外面が全く等しい力で働いていることを意味するのですか。
はい、そうです。付帯質としての力の方向性が全く同じ力で働いているからです。
月の公転が付帯質の内面の次元で、月の自転が付帯質の外面の次元と考えてよいですか。
はい、よろしいです。
それは人間にとっての善なるものと悪なるものの関係と同じですか。
人間が方向性を反転させていることを悪とするのならば、同じことを意味します。
●交信記録19940326
新月とは何を意味していますか。
精神における覚醒を生み出す対化を内面に変える一つの次元が方向性を等化に持つ内面に生み出す定質のセイカクカ作用。
満月とは何を意味していますか。
定質の対化によって生み出されたものを内面に変える覚醒された位置。
ほとんどイミフの会話に聞こえるかもしれないけど(笑)、長~い年月をかけて、こうした対話内容を分析してきた結果、例えば、月に関して言うなら、月の公転周期は次元観察子との兼ね合いでは、下図のような役割を果たしていることが分かってきたよ。ヌーソロジーを知っている人はかなりインスピレーションを刺激されるんじゃないかね。
特に、観察子の数に注意。ちょうど「28」になっている。
2月 28 2018
ヌーソロジーの弁明—簡明なものを底支えするために
ヌーソロジーはOCOT情報というチャネリング情報をベースに構築中の現在進行形のコスモロジーだ。スタイルとしてはグノーシス的なのだが、神秘主義的観想というよりも、幾何学的瞑想を通した空間認識の変革というメソッドを採っている。「トランスフォーマー型ゲシュタルト」と呼ぶものだ。
この幾何学はいわゆるイデア(精神の形相)に相当するものだが、ただ、この幾何学が正しいものかどうかという保証はどこにもない。そこで、とりあえず、その正当性を確認するための作業が必要となる。
イデアなのだから、それは物質や意識の発生論的境位に深く関わってないといけない。果たしてOCOT情報が伝えてきた幾何学的布置が本当にイデア足りえるかという吟味、裏取りが必要なわけだ。厄介なことに、このような発生論的分野を語っている信頼できる筋は物質なら現代物理学、意識については哲学しかジャンルがない(伝統的宗教やオカルティズムは、それこそ人間の体制によって大きく捻じ曲げられているように感じる)。
そこで致し方なく、その説明はシリウス言語、物理学用語、哲学用語という、ジャーゴン(難解な専門用語)のトリニティで埋め尽くされてしまうことになる。望んでやっているわけじゃないのだが、他に材料が見つからないのだから致し方ない。
今は、そうした七面倒くさい裏取りをやっている段階なので、複雑で難解に見えるかもしれないが、裏が取れれば、物理学と哲学の言葉はおそらく不要になるのではないかと思っている。というのも、シリウス言語自体、その両者が融合したような新種の概念で網羅されているので、その概念の工事が終了しさえすれば、そういった重たい道具類は不要になるのではないかと考えているからだ。ヌーソロジーが幻視する新時代にとっては、精神=物質なのだから、まぁ、これは当然の話ではあるのだが。
ただ、裏取りに哲学と物理学が必要になると言っても、その道の専門家からすれば、おそらく、ごく基本的な内容に止まっている。そんなに深く足を突っ込む必要もないだろう。哲学にしろ、物理学にしろ、それを本格的にマスターしようと思ったら、それこそ一生を要するような学問だから、そこに固執していては本流から逸脱してしまう。ヌーソロジーが吟味のために採用しているのは、ドゥルーズの哲学と量子論~素粒子物理のそれぞれ初歩的な部分のみだ。
ドゥルーズに触れて約15年ほど経つが、ドゥルーズの哲学には過去の反体制の哲学の集大成のようなところがある。僕なりに言わせてもらえば、その情動はニーチェであり、その倫理はスピノザであり、その論理はベルクソンであり、その美学はライプニッツである。といったところか。デカルト-カント-ヘーゲルといった体制派の哲学者たちをドゥルーズは常に対岸に見ている。
ニーチェからは永遠回帰(能動的ニヒリズム)、スピノザからは永遠の相(第三の認識)、ベルクソンからは純粋持続(生命的跳躍)、ライプニッツからはモナド(逆モナド)というキーワードをそれぞれ引き出すことができるだろう。ドゥルーズの頭の中ではこれらはすべて美しく繋がっている。
ドゥルーズは「差異」という概念を執拗に訴えるが、要は、新しい時空間の創設を呼びかけているのだ。人間が受動的ニヒリズムの中で自動機械のようにして生きるのではなく、能動的ニヒリズムを持ってアナーキーな存在へと変身できるような場所。そのような解放区(ノマド)を作り出すこと。ドゥルーズにとってそれは理念的空間への侵入を意味している。ドゥルーズ哲学の別名でもある「超越論的経験論(超越論的なものを経験の範疇へと取り込んでいくこと)」というのも、その侵入の意味だと考えていい。
ここで言われている超越論的なものというのは、人間の意識経験のすべてを可能にするためにウラで働く無意識のようなものだ。その無意識の自動機械のような営みの中で、人間は「人間」という体制を余儀なくされ、イメージと言語の生産に躍起となっている。その生産の反復は資本主義機械が紡ぎだす脱領土化/再領土化の中で消費され、その延々と繰り返されるクリシェは、今や大地さえをも回復不可能な状態へと追い込んでいる。
誰もが飽き飽きしているにもかかわらず、それ以外に欲望の持って行き所が分からない。この悪夢のような自動機械(無意識の欲望機械)から逃れる手段はただ一つ——この機械の回路を裏返し、経験不可能とされるこの超越論的なものを経験可能なものにするしかない。ドゥルーズの哲学が「反転の哲学」と呼ばれる所以もここにある。すべてを裏返すこと。ヌーソロジーはここにOCOT情報とドゥルーズ哲学の完全な一致を見ているわけだ。
資本主義機械のチューンを狂わせるためには、まずは、すべてを裏返して見ることのできる知覚を作り出さなくてはいけない。この知覚器官はたぶん思考以外にないだろう。感性の反動として生まれている思考でなく、感性そのものを能動的なものへと変えるような思考。思考がこのように能動化することによって、マクロはミクロへと反転可能となり、主体は客体へと反転し、わたしはあなたへと反転し、死は生へと反転する。そういう世界が、この人間の意識世界を支える裏世界として厳然と存在しているわけだ。ヌーソロジーでいう「ヒト」というのがその裏世界に当たる(ドゥルーズもその世界の住人のことを「ひと(on)」と呼んでいる)。
ヌーソロジーはその来るべき新世界の地図作成に臨んでいると思ってほしい。要は物質を精神へと裏返す作業をすでにマイノリティー(民衆)(ドゥルーズにとって「民衆」とは、やがてやってくる「ひと(on)」のことを指す)として開始しているということ。まだまだ、遠い先のことかもしれないが、今の文明は必ずこの方向へと抜けていく。それを文明と呼んで良ければの話だが。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, ドゥルーズ関連 • 0 • Tags: OCOT情報, トランスフォーマー型ゲシュタルト, ドゥルーズ, ニーチェ