10月 3 2016
瞬間の中にある永遠が開く時期が迫っている
意識は能動的なものと受動的なものの関係性が作り出している。だから意識の秘密を探るためには能動的なものが活動している場所と受動的なもののそれとをまずは見い出さないと無理。哲学的には持続と延長がその関係になってるのだけど、物理学ではそれが内部空間と時空の関係として表現されている。
人間が能動的なもの(持続)に無頓着なのは、記憶の重要性についてまだ気づいていないからだね。記憶こそ空間の非局所的性質がもたらしているものだよ。かつてのあそこも今ここに同時にある。記憶ってそういうものでしょ。それに対して外的知覚なんてものは一瞬で消え去ってる。ここんとこよく考えて。
外的知覚は幅化した奥行きの空間を通して入ってくるんだけど、それを記憶として保持しているのは持続としての奥行きの空間なんだ。だから、記憶は常に目の前で再現されてくるわけ。目の前に異次元が重なっているんだよ。この異次元がなけりゃ、外界なんて瞬間だけなんだからないも同然でしょ。違う?
そして、この異次元がダイレクトに素粒子と直結しているとしたら、自然界に出現しているすべての物質は実は外界に存在しているものではなく、持続体の運動のもとに段階的に組織化されている精神の歴史の瞬間的幻影ということになるね。鉱物も、植物も、動物も、そして他者も実はそういうものなのさ。
それらを時空上の存在物と見る思考は持続の力を無視した全くの虚構と言っていいんじゃないのかね? 科学的唯物論(素朴実在論)の胡散臭さはまさにそこにあるわけだね。だから、そんなのを常識にしていてはダメ。持続空間を思考していくための影絵のようなものとしてみないとね。
こんな当たり前のことを言うのに、哲学的にいろいろな言い回しを駆使しなくちゃいけないほど、僕らの思考は本当の宇宙的現実からズレているわけ。正気じゃないんだよ。誰もが空間を幅で覆っちゃって、奥行きを見てないから。奥行きこそが僕らの生命が働いている場所だよ。
つまりさ、瞬間の中に畳み込まれている永遠、それが僕らなんだ。これについては過去の神秘家や、宗教者や、哲学者たちがすでに多くを語っている。しかし、まだ僕らはこのパラドックス的共在を知性の域にまで上げれていない。だから人間は死に怯えることになる。死と重複して生きているにもかかわらず、だ。
死を開くためには力強い知性がいる。死を見えるものへと変えていく必要があるのだ。死とは生を経験可能なものにしている永遠の部分だ。そして、この永遠は永遠という別の時間の中で生きている。もちろんそれを魂と呼んでもいいのだが、そう呼んでしまうとその分かりやすさゆえに死は生から遠ざかる。
今までとは全く違った方法でこの死の空間を召喚すること。「奥行き」において空間を思考し世界をそこから再構成していくということは、死の視点から世界を描き直すことに等しい。地図はもうほぼ出来上がっている。あとは、奥行きを虚軸と見なす物理学者たちの決断だけなのだろうと思っている。
おそらく数十年後には現在、素粒子物理が展開しているゲージ対称性の世界は人間の魂の構造として理解される世の中になっているだろう。それが人間世界のすべてを変えていく。それが「次元の方向性がすべて見えるようになる」というOCOT予言の意味でもある。成就の年は2039年とされている。
10月 14 2016
「付帯質の等化」の時代
最近はシリウス言語(OCOTが使用する語彙)を使用することを極力控えている。というのも、それが半田広宣のセンスではないというのが一番の理由なのだが(笑)、同時にそうした言葉を撒き散らす弊害というものも熟知しているからだ。概念を孕まない言葉は他者に対して暴力的に振る舞う。まぁ、これは何もシリウス言語に限ったことではないが。
しかし、一方でシリウス言語の長所というものもある。それは全く違った思考空間を開かせる力を持っているということだ。何一つ手垢に染まっていない純白の言葉。宗教でも科学でも哲学でもオカルトでもない、何か得体の知れない言葉。たまにそれを多用して話をしてみるのもいいだろう。
OCOT情報では物質のことを「付帯質」と呼ぶ。これは「付帯する力」といったような意味だ。何に? もちろん精神(霊)に、である。物質とは精神に取り憑いた「つきもの」だということだ。では、なぜ、そのようなものが付帯してくるのか―ここには極めてシンプルな理屈がある。
それは精神が「対(つい)」として存在しているものだからだ。精神は数学でいうべクトルのように力と方向を持っている。この方向が「対」、つまり、真逆になって活動しているのだ。真逆なわけだから、二つの精神が一体化すると方向が見えなくなる。つまり、方向がプラスマイナスゼロで相殺されてしまうわけだ。
この相殺の場に生まれてくるのが付帯質だと考えるといい。わたしたちが経験している時間、空間、物質はその意味ですべて精神の実体を欠いていると言っていい。
科学はもちろんのことだが、宗教、哲学、オカルティズムにもまだこの「精神の対化」という概念が明確に存在していない。それは思考者たちが人間について考えるとき、人間一般という同一性に依拠して考えているからだ。要するに「精神の対化」とは僕らが自己と他者と呼んでいる存在の起源において活動しているものだと考えるといい。
この精神と付帯質の関係が空間に出現してきたものが、実は奥行きと幅だと考えるといい。奥行きは精神、幅は付帯質。確かに精神がもう一つの精神を見ようとするとき、それが幅になって出現していることが分かる。他者の奥行きを自己から見ようとするとき、それは幅にしか見えない。
ここは冷静に考えてみるところだ。わたしたちは互いにこの幅を交換しあって世界を見ている。つまり、互いの付帯質を共有し合って世界をイメージしているのだ。この状態をシリウス言語では「付帯質の対化」、もしくは「中和の対化」と呼ぶ。要は外界の状態だ。精神がどこにもない。いつも言っているように、奥行きが幅の下に沈んで意識化されていない。別の言い方をするなら、精神がどこにも含まれていない。精神は付帯質に覆われ、その下で眠れる無意識として、得体の知れないものとして蠢き続けている。
ここまでの話だけでも、現行の科学的世界観というものがいかにハリボテの世界かが分かるだろう。同時に、この奥行きの秘儀を言い当てていない宗教も空虚な抵抗であるということが分かる。奥行きはそこへの感応力を持たされた一部のビジョニストか、鋭利な直観を持つ一部の哲学者たちのみが嗅ぎ取るだけで、いまだに隠蔽されたままだ。
付帯質が「対化」として存在する限り、そこには必ず精神が芽生える土壌がある。OCOT情報によれば「精神」とは「対化を等化する力」として定義されている。だから、最初に付帯質から立ち上がる精神の働きのことを「付帯質の等化」という。付帯質の等化とは自己が自らの精神を立ち上げることと思っていい。これは「意識が時空から出る」ということの意味だ。付帯質の等化が始まることによって、意識の対象が時空内の物質ではなくなってくる。それによって、意識は付帯質の外面から内面へと移動を開始する。
付帯質の外面とは物質の外部世界のことと考えるといい。言い換えれば表象の世界のことだ。一方の付帯質の内面とは物質の内部世界のことである。これが収縮の世界に当たる。モナドへの接続である。ヌーソロジーは現在、この付帯質の内面へと意識の活動場を遷移させていくことを目的として作業を行っている。
OCOT情報によれば、付帯質の内面の先には、精神の内面や精神の外面という広大な霊的空間が広がっている。付帯質の内面が見えてくれば、それらがどういう世界かも徐々に分かってくるのではないかと思う。それははっきり言って誰も想像だにしなかったような空間だ。そういった新しい空間が開きかけている。ポスト2013とはそういう時代なのだ。
今日は致し方なくシリウス言語というものを多用したがご容赦願いたい。聞きなれない言葉が頻出したかもしれないが、これらは精神空間を幾何学的認識として切り開いていくためにはどうしても必要な言葉になっている。精神空間はカオスではない。驚くほどシンプルな秩序で成り立っている。僕らにはまだ概念がないだけなのだ。
人間は歴史の中でこの未到来の概念についていろいろなことを語ってきた。それを明確につかめないことが事態をさらに悪化させ、今やその入り口はその合致しなかった鍵の山で埋まってしまって見えなくなってしまっている。オカルトの言葉、宗教の言葉、哲学の言葉、科学の言葉etc。
まもなくそれらは一切の装飾、一切のノイズを捨て、一つの言葉、一つの知性となって蘇ってくるのではないかと思う。付帯質の等化は始まっている。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: OCOT情報, 付帯質, 奥行き