眼から芽へ

 現在、ヌース理論のテキストブックの下案作りをヌース会議室の方で進めているが、今日は、1日仕事の手が空いたので、そちらの作業にだいぶ時間を割くことが出来た。

 今日考えていたのは「表相」というヌース独自の概念についてだ。独自でもないか。。。フッサールの現象学なんかでは「射映」と呼ばれているが、要は、視野上に顕われているモノの見え姿のことである。ヌース理論では、この「表相」を精神構造における最もミクロな部品と考える。僕らの周囲を見渡してみると、それこそ、多種多様な表相で覆われているのが分かる。様々な形と色とデザインでかたどられた対象の数々。鉱物、植物、動物、人工物、星空、そして、君の顔。僕らの肉眼に写し出されている表相の世界は実に多彩だ。

 表相とは別名、見ること、に他ならない。見ること——精神はこの行為によってその活動のスイッチを入れる。当然、見ることのさらなる奥には、触ることや嗅ぐこと、味わうことや聞き入ることなどの諸感覚の働きがあるだろう。しかし、ヌース理論は敢えて、見ることにこだわりたい。なぜなら、見ることは知性的なものの象徴だからだ。ヌースが旋回的知性という名の通り、知性の範疇であるならば、見ることはこの旋回性に無関係のはずがない。人によっては、ヌースがあまりに視覚にこだわるので、おもむろに嫌悪感を示す人々がいる。

「眼は理性の象徴である。それはアポロン的な知性しか呼び起こさない。どうして、眼にデュオニソスの力を再現する力があるというのか。眼によって世界の裏を見透かすことはできない。」

 果たして、そうだろうか。僕は、人間はまだ眼の潜在的な力を開拓しきれていないのではないかと感じている。もちろん、嗅ぐことや聴くこと、触ることや味わうことなどによって呼び起こされる共感覚が、無意識を呼び起こす上でとても重要なことぐらい百も承知している。しかし、神の性器は間違いなく眼だ。そういう確信がある。だから、神の生殖に関して思考を巡らすためには、いや、神の生殖をこの世界にもたらすためには、この「眼」についてもっと深く思考する必要があるのだ。

 現在、眼は極めて男性っぽい響きを持っている。視姦。覗き見。監視。etc。それは、人間があまりに見ることにおいて、見るものを意識しすぎているからだろう。しかし、それも無理はない。見るものがどこからやって来たか知らないのだから。受け手はただ、与えられたものの美しさや不思議さに魅せられるしかない。しかし、そろそろ、受け手自身である自分に眼差しを向けてはどうだ。見ることにおいて、見られることの方に意識を向ければ、眼はそれこそ、女(め)となり、また、芽(め)となることができはしないだろうか。

 眼がモノを見ているとき、モノもまた眼を見ている。眼がモノから放たれる光を見ているとき、モノもまた眼から放たれる光を見ている。僕らの眼はまだ十分に開いてはいない。眼が完全に開いたときには、もはや、モノを見る必要はなくなるだろう。僕らの眼とモノの眼が出会うとき、二つの眼は光そのものになる。光になれば、世界から見る主体も見られる表象も消え去る。そこに出現するのはタブラ・ラサとしての世界だ。

さて、何を描こう。。。
ヌースの芸術がここから始まる。