SU(2)とSO(3)、ふたたび

SO(3)認識からSU(2)認識へ。これがこれからの時代の物質に対するわたしたちの観察態度の指針になると言えるだろう。
 
一つの物体を目の前で回転させて見たとき、それを単なる物体の3次元回転と見なすなら、それはSO(3)だ。しかし、そこには同時にSU(2)という非局所的回転も起こっている。これを感じ取ることが重要だ。
 
これら二つの回転の違いを図的に表現するなら、おおよそ下図のようになる。物体を覆う大円が一回転の捻りを持っているのがSU(2)で、全く捻りを持っていないのがSO(3)だと考えるといい。
 
僕らはまだ全く気づいていないが、物体にはここに描いたような3次元球面という高次の空間が重なって在る。それを知覚できるようになることがトランスフォーマー型ゲシュタルトの一つのキモでもあるのだが、一体、このSU(2)=3次元球面とは何を意味するのか——。それをじっくりと考えてみてほしい。
 
一つだけすぐに分かるのは、3次元球面の認識においては、3次元空間内での外部/内部といった空間の区分は意味を為さなくなるということだ。下図左の3次元球面の図には、あたかも外部があるかのように見えるが、どの大円を取っても捻れているので、3次元的な外部は実はそのまま内部に畳み込まれている。
 
つまり、例えば下図で点Xの外側に向かうような方向は、その対極点(180度反対側にある点)における内側への方向として表されているということだ。
 
この3次元球面内における一本の線分の中に、わたしの「前」が息づいていると考えるといい。とすれば、この3次元球面は「わたし」だけでは構成の仕様がない。あなたの「前」、彼の「前」、彼女の「前」、彼らの「前」というように、数え切れない無数の「前」の集まりで構成されていることになる。
 
わたしたちが一つの物体を取り囲んで、それを見ているとき、そのような高次の球体が一つの物体には重なっているのだ。
 
物体が回るとき、物体はわたしたち一人一人の前を等化していく。私に見える物体の一表面がグルリと回ったとき、他者にもその表面が確認できるのは、物体自体がSU(2)の回転を実行しているからにほかならない。
 
つまり、「物体」は自他の奥行き=持続空間を等化しているのだ。こうした物体のことを物体とは区別して、「もの」と呼ぼう。「もの」が自他を等化している。「もの」によるこうした等化構造があるから、わたしたちが客観と呼ぶ時間や空間が生まれてくるのであって、決して、時間と空間の中に物体があるわけではない。
 
科学的世界観が「宇宙のほんとう」に何一つ触れることができないのは、時空の中に物体があるという古典的世界観を未だに引きずっているからだ。「もの」の時代を到来させよう。その時代においては空間そのものが精神と見なされ、物質と精神の区別も全く無意味なものになるだろう
 
そして、言うまでもないことだが、こうした空間構成は自己が他者構造(他者視線=鏡)から解放されたところに芽吹いてくる。
 
その意味で言うなら、現在のわたしたちの頭の中は鏡が原因となって作り出された表象の知で埋め尽くされ、にっちもさっちもいかなくなってしまっている。持続(奥行き空間)における知の構成というものにそろそろ着手していかないと、わたしたちは資本主義が生産し続ける表象の洪水の中で溺死してしまうのではなかろうか。もう、お腹いっぱいで、ゲップゲップや。

3次元球面