12月 4 2020
ヌーソロジーでいう「最終構成」とは何か
コロナ禍も手伝って、社会やビジネスのスタイルが大きく様変わりしていっている。国を初め、企業もそのほとんどがIT戦略を「大いに加速」する方向に向かっている。
GAFAなんかのビッグテックも、スタートアップ系よりもARやVR、フィンテック、クラウド、IoT等の様々な分野の中堅企業の買収に大量の資金を注ぎ込む方向へと方針を転換したようだ。こうなると、当然、世界のIT化は今まで以上に加速されてくる。
これから先、ビッグデータを処理するためにより高性能のコンピュータが要請され、量子コンピュータの研究開発はますます活気付いてくることは間違いない。
ヌーソロジーの文脈からすれば、量子コンピュータとは人間の無意識を物質的方向で用立てしようとするところに登場してきている技術であるから、今から起こってくることは、物の内部に物質意識として入っていくか、精神として入っていくかという意識の方向性の分離ということになる。ヌーソロジーでは、こうした方向性の二分化のことを人間の「最終構成」と呼んでいる。
象徴化して言えば、前者はトランスヒューマニズム。後者はトランスフォーマリズム。トランスフォーマリズムとは意識形態自体を高次元認識に変形させていく考え方のことをいう。まぁ、電脳で融合を果たしていく方向か、生身の精神実体(これが量子に当たる)でのそれかといった関係だ。これら両者が、これからの時代の新しい二極となって、時代は言わば量子の鏡像と実像との抗争のようなものに入っていくことになる。人間の意識がネット社会のみに偏りを持つなら、おそらく、すべては前者に領土化されていくことになるだろう。この領土化は絶対的領土化であり、トランフォーマリズムの空間以外、逃げ場はない。
奇妙なことを言ってるように聞こえるかもしれないが、ヌーソロジーから見ると、「奥行き」が虚軸(精神)であることの理解が生まれなければ、この変動には気づけないということだ。トランスヒューマニズムとトランスフォーマリズムは、人間の意識という次元を挟んで、互いにねじれ合って表裏の関係で蠢いている。その意味では、ヌーソロジーの思考はコンピュータ社会が裏側の補完として人間に要請してきているものとも言えるだろう。
その補完性の内実の典型的な例として、量子コンピュータが用いている量子ビット空間を挙げることができる。これは、実は、自己から見た他者側の3次元球面(SU(2))になっている。この方向性を自己側に反転させるために働いているのがヌーソロジーの思考だと考えると、トランスヒューマニズムとトランスフォーマリズムの対峙性がよく理解できてくるのではないかと思う。
念のために量子ビット空間(ブロッホ球と言います)の図を挙げておこう。
(https://tobata.kyutech.ac.jpから引用)
ヌース用語ではこの空間は「垂質次元」に対応している。知覚正面自身を回転させて回転軸が作られていれば、以前紹介したキットカット実験で直感されてくる球空間と同じものである(ブロッホ球はSU(2)ベースのモデルなので、3次元の実空間とは対応していないことに注意してください。半回転で3次元空間の一回転の意味を持っています。この意味についても考えて見るといいと思います)。
2月 3 2021
ヌーソロジーが見ている「ある」「いる」「なる」の関係
素粒子というのは、対象として見ようとするから、あたかもミクロの世界にあるようにイメージされているだけで、本当は時空全体に重なるようにして存在しているものなんだよ。だって、奥行きってそういうものでしょ。ねぇ。
となると、見方を変えるなら、素粒子(奥行き側)から時空ができているって考えることもできるわけだよ。ヌーソロジーはそういう認識を作り始めているわけ。
奥行きは僕らの内在(持続)の場所だといつも言ってるわけだよね。ならば、もし、この奥行きとしての持続側から時間と空間が生まれている現場が意識に見えてきたら、外の世界なんてものは消えるだろ。
主観性の原理というのは世界を時間と空間の中で対象化するところに生まれているわけだから、この原理を乗り越えるためには、別の原理を対抗させるしかなく、この別の原理というのが、このように時間と空間を自分自身の内に見る生成の原理というものなんだよ。
この生成の原理の世界では、見るものと対象はもう分離することが不可能になる。それが「なる」の世界なんだ。
本当はこの「なる」の世界が”宇宙(存在)”と呼ばれるべきものなんだけど、僕らはどういうわけか視点を他者側にそっくりそのままひっくり返して宇宙を幅で見ちゃっているので、「なる」の世界が「ある(物質)」の世界に凝結してしまっている。
僕らがこの「ある」の全面的な専制になかなか馴染めないのも、「なる」の世界側からの呼び戻しの声が一人一人の心の中に響いているからだと思うよ。その声をしかと聞いているからこそ、僕らは「人間が世界に”ある”」とは言わず、「人間は世界に”いる”」と言うんだね。
「いる」ものの世界が「なる」ものの世界へと開く時代がやってきている。多くの人が奥行きに自分の心を感じ始めれば、「なる」の季節の到来はあっという間だと思うけどね。
ヌーソロジーでいうところの「ある」「いる」「なる」の関係、少しは伝わっただろうか。。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: 奥行き, 素粒子