12月 5 2014
死が息づく場所を見つけて、死を生きるということ
向かい合う自己と他者が観察の視線を左右方向に向け、互いの視線を同一化させたとき、視線は虚軸から時間軸へと変わり、同時に奥行きだったところは虚軸から空間軸へと変わってしまう。この構造変動によって内部空間での回転は擬回転へと変わり、時間と空間によるローレンツ変換の世界が出現してくる。
こうした空間構造をベースにして考えると、奥行きを経過的な時間と見てしまうこと自体が存在からの逸脱だと言える。それは世界を横から見る位置に意識が落ち込んだ者たちの言い分だ。奥行きは時間なんかではない。二百万年光年先のアンドロメダ銀河を二百万年前の姿などと言ってはいけない。そうした言明は、わたしたちの意識的現実を全く反映していない。
銀河の星々にしても同様だ。純粋な奥行きにおいては、人はその星々の位置にいる。そして、一人一人の心の中にある純粋持続の力と繋がっている。科学的世界観が作り出している宇宙観は奥行きの本質を何一つ捉えていないのだ。科学が作り出しているこうした錯覚を、科学そのものの内部から、そのはらわたを食いちぎるようにして根底から是正していくこと。それがヌーソロジーに与えられた使命のように感じている。
奥行きは僕らの命綱だ。それは存在の力と直結している。その最初の入口は時間と空間の中では光のスピンとして見えている。奥行き本来が光のスピンであるにもかかわらず、人間は奥行きに幅を見てしまっている。その結果、本来の奥行きは幅側へと固定され、光のスピンが幅側に観測されることになる。光のスピンが2次元の自由度(平面)しか持てないのは、奥行き自体が光のスピンであることを、人間が忘れてしまっているためだ。
だれでも、奥行きにおいて生きているのだから、光の精神を持っている。「光になる」とは光の精神の中に自らの生命を感じ取ることだ。そこには時間に縛られることのない「永遠」がある。すべての人がこの「永遠」の上に生きている。「永遠」は、あらゆる存在者の土台であり、それは「死」の別名に他ならない。
死を生きよう。この露になった死の中に自らの重心を移していこう。それが意識の反転が持った本意である。
2月 6 2015
Golden Sun Spirit——太陽霊への扉
OCOTは人間の意識の在り方を「性質」と呼ぶ。性質とは中和が生まれている状態という意味だ。中和とは空間の+と−という差異が相殺されて違いが全く見えなくなっていることを意味するが、それが3次元空間や時間のことと考えるといい。ここでいう+と−とは自己と他者が息づいている空間のことだ。
その意味からすれば、僕らが日頃慣れ親しんでいる3次元の空間や時間とは、自他それぞれの固有の魂が融けていっている場所とも言える。空間と時間だけで世界を思考することは、人間の魂を融かしていくのだ。OCOTはその融けていく状態が物理的には「熱」として現れているとも言う。これは自然界のエンロピーの増大とも深く関係している。
時間と空間という延長の世界は宇宙の実体が死滅していっている世界だということに、僕たちはそろそろ気づかないといけない。その意味で言えば、時間と空間の延長性をベースに置いている思考活動は反-生命的なものと言える。生命に即した思考は、決して世界を尺度で数値化したり、データ化したりはしないということ。
生命は空間や時間の中で生きているものではない。ベルクソンが言うように生命は持続の中で生きている。時間と空間という概念の肥大化によって剥奪されたこの持続感覚をまずは奪回することが、これからの時代は最優先されなくてはいけないように思う。自分自身を貫いている持続にまずは感応すること。そして、それを時間と空間に変わる世界の新しい土台へと変えていくこと。
「持続にまずは感応すること」という言い方が少し分かりにくかったかもしれない。これは、自分が過去を一気に丸ごと感じとっているところに自分自身の身を置くということだ。それが生きている。それが生命だと深く自覚すること。ヌーソロジーの思考はすべてそこからスタートさせている。
「自分が過去を一気に丸ごと感じとっているところに自分自身の身を置く」——この場所こそがいつも話している「奥行き」だ。確証はない。直観だ。そして、この奥行きを虚の空間と見なすことによって、主体は時間や空間の世界とは全く異なる世界へと出ることができる。
もちろん、この異世界の中を神秘主義的なアプローチで探索することも可能だろう。しかし、それでは多くの人が相互了解が取れる知識とはならない。そこで、虚空間を含む構造体として自然界に姿を現している「素粒子」の世界が問題となってくるわけだ。素粒子はこの虚を内包するがために時間と空間の中に存在しているものではないとされる。だから、素粒子の存在様態は人間が持った時空間的な表象をことごとく退ける。素粒子の中では過去も未来も、ここ、あそこも溶け合っている。
つまり、それは物体の元でありながら、物体ではないということ。だから、物理学者といえども、未だに誰一人素粒子の描像を描くことに成功してはいない。しかし、そこには抽象的でありながらもこのうえなく美しい構造が展開している。奥行きに持続を見て、それを虚空間と仮定し、この構造をなぞっていくと何が出現してくるか——。
驚くべきことに、そこには現代哲学が追い求めてきた人間の無意識構造、もしくは超越論的構成と呼んでもいいような世界が現れてくる。もの自体をベースにして展開する、感性、悟性、理性、そして理性からの逃走線。それらの構造とピタリと一致するようなカタチが浮上してくるということなのだ。
さらに言えば、それらの構造は双対性のカタチをとって、太陽の中で起こっているpp反応と重なり合っても見えてくる。つまり、純粋持続としての奥行きを虚空間として仮定して思考していくと、自己と他者の無意識が太陽の中で結び合っている世界が垣間見えてくるということなのだ。その意味で奥行きは太陽実体に侵入するためのゲートとなっているとも言える。
こんな時代だから、外の世界に関心を持つことももちろん大事なことなのだが、たぶん、今、人間の内なる世界で激変が起こり始めている。内なる世界にもっと意識を向けよう。自身の内の世界にこそほんとうの宇宙がある。外の宇宙もこの内の宇宙があってこそ、なのだ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ベルクソン, 奥行き, 素粒子