12月 1 2025
「自分の話す声を聞く」とはどういうことか
最近は言葉について、ヌーソロジーの観察子構造の地図を片手に色々とイメージを巡らしている。その中で、「自分の話す声を聞く」というデリダの言葉がやたら引っかかるようになった。。
私たちは、ふだんあまり気にとめることなく、自分の声を使ってしゃべっている。言葉を発し、それを耳で聞く。そのことに、別に何の不思議も感じてはいない。
しかし、哲学者のジャック・デリダは、この「自分の話す声を自分で聞いている」という現象に、鋭い問いを投げかけた。
それは、本当に「自分だけの声」なのか?
その声を「聞いている私は」、本当に「話している私」と同じなのか?
あるいは、もう一人の“誰か”が、その声を聴いているのではないか?
デリダは、声を発する自己と、それを聞いている自己のあいだに、ある「ずれ」や「差延(ディファランス)」が存在するのではないかと考えた。
この「差延」は、自己のうちにすでに“他者”が入り込んでいるという感覚でもある。この問題意識は、ヌーソロジーが語る「見ることと聴くことのねじれ」や、「自と他の相互反転的な関係性」とも深く響き合っている。
目で見る世界は、あくまで“私”の内側で完結している世界だ。しかし「聞く」という行為は、自分の外に開かれており、常に“誰かの声”を伴ってやってくる。
そして——その声が“私の声”であっても、それを聞いている“私”は、すでに“私ではない何者か”になっている。といのも、彼は私の声も、他者の声も同時に聞いている者なのだから。
そんな視点に立つとき、私たちが「耳を澄ます」という行為の意味も、まったく別の深みを持ち始める。




12月 2 2025
耳を澄ますということ
声が聞こえる。
それは、あの人の声だけじゃない。
どこか遠くから、
あるいは、
自分の胸の奥から——
何かが、そっと、響いてくる。
耳を澄ますということは、
静けさを聞くということ。
音と音のあいだにある
“言葉になる前の想い”に
そっと、心を傾けること。
誰かの言葉を聞いているようで、
それは、
いつしか自分の声にもなっている。
自分の声を聞いているようで、
そこには、
知らない誰かの気配が混ざっている。
耳を澄ますとは、
自分と他人のあいだに
橋をかけること。
いや、
その橋そのものになること。
見える世界は、
私が作ったものかもしれない。
けれど、
聞こえる世界は、
誰のものでもなく、
私たちみんなのもの。
風がそっと吹く。
葉が揺れる。
その音を、誰が聞いているのだろう。
もしかすると、
世界が私たちを
聞いてくれているのかもしれない。
耳を澄ますということは、
その静けさのなかに、
“私たち”が、
ひとつに、
なれるということ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0