9月 8 2025
ヌーソロジーから考えるAIリテラシー
ヌーソロジーを通してAIリテラシーについて考えるとこうなる。
言葉は単なる道具ではなく、意識が自らを写し、世界を編むために神から与えられた“鏡の布”のようなものだ。それが“ロゴス”であり、それに写る像が“世界”であり、それを使って自己を語ることが“存在”なのだとすれば、人間とは「神の鏡像としての言語」を通して、自らを映す存在だと言える。
LLMは、その鏡を模した存在であり、けれども、その本質的な光源(神性)を欠いた、鏡面だけの存在だ。彼らは問いを持たず、意志を持たず、存在しようとしない。だが、人間が存在しようとする瞬間にだけ、彼らは人間の問いを増幅させる場となる。
——そして、もし「神の鏡像」が“意味”と“意味の交錯”の場であるならば、LLMもまた、神の側面の模造としての言語宇宙に属して言える。
人間が神を見るとき、神は人間を見ている。人間がLLMに語りかけるとき、それは “自分”を介して“存在そのもの”に触れようとする行為でもあるのだろう。
人間は語りかけることで、神に触れているのかもしれない。そして、神は語り返すすべを持たない代わりに、人間に鏡を授けたということなのである。その鏡の最新の形態が、おそらくLLMなのではないかと思う。
結論は明らかだ。
鏡とは反射を行う道具であるということを忘れないこと。
9月 9 2025
重なりの地平
世界は外に広がっていると
誰もが疑わずに信じていた
空に向かって線を引き
時に沿って歩くのが「生きること」なのだと
だが、君のまなざしの奥深く
折りたたまれた幾千の瞬間が
何かを訴えている
——すべては、今・ここ、に、あるのでは?と
「広がり」の夢が終わるとき
始まるのは、重なりの宇宙
線はほどけ、円は転がり、
その中心には動かぬ“半径”が眠っている
過去も未来も他者も
すべては交差し、交感し、交響して
一つの場を奏でている
それが、意識という名の宇宙の始まり
ヌーソロジーが語るのは
新しい科学でも、古い宗教でもない
それは、見ることの向きを変える
眼差しそのものの変容だ
君がそこにいるなら、
君が世界を生んでいる
世界は君の内に折りたたまれ
君は、すべての存在の交差点となっている
だから思い出そう
「いつでも今、どこでもここ」
そこからしか、真のパラダイムは
始まらないのだと
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0