10月 7 2025
今までには存在したことのない、何か新しいもの
今の社会において「自分が何者かわからない」という感覚は、多くの人に共通する苦しみかもしれない。でもヌーソロジーの視点から見れば、それは単なるネガティブな状態じゃはなくて、「これまでの“自分像”ではもう納得できない」ことの現れなんじゃないかと思う。そういう人、増えていると思うよ。
なぜならヌーソロジーは、「自分を回復させる方法」ではなくて、「“自分”という概念そのものを問い直す方法」だからなんだよ。つまり、何もかもが別世界。個人的にはその世界を垣間見たくてやっている。AI支配とか、ロボット社会とは全く無縁の未来世界。方向が逆だからね。
テクノロジーが世界をどんどんつまらなくしていると感じている方には、とにかくオススメ。人間の体制の惰性に飽きたら、是非、トライしてみてください。
ヌーソロジーのことをオカルティズムの一種と思う人もいるけど、ちょっと違う。確かにグノーシスの範疇には違いないと思うけど、オカルティズムのような、不明瞭で、混沌としたものじゃない。
ヌーソロジーが目指している神秘とは、むしろ“構造として明晰に立ち上がる静寂”のようなもので、理性と感性が交差する幾何学的な「場所」なんだよね。このビジョンにおいては、神秘は“知ることができないもの”じゃなく、“すでに在るのに、まだ自覚されていない存在そのもの”として感じてくる。
ヌーソロジーとは、“世界を見る目”そのものが世界を生み出していることに気づくための、言葉と幾何学によって組まれた「意識の航海装置」のようなものに見える。そしてそれは、「人間とは何か」という問いを終わらせるのではなく、“人間という形式そのものを変容させる”問いを始めさせる装置になってきた感がある。あくまでも自分的にはね。
10月 8 2025
観察のはじまり
とにかく言いたいことは、
「観察する行為」とは宇宙の始まりだということ。
それが「意識の反転」。
観察のはじまり
ひとは見る。
世界を、星を、
手のひらに乗せた小さな林檎を。
だが──見るということは、
そこに既にあるものを
ただ受け取ることではない。
見るということは、
はじまりを告げることなのだ。
未明の闇に、ひとすじの光が
静かに走るように。
視線が定まったその瞬間、
世界ははじめて「かたち」を持ち、
その者の中心から、宇宙が生成される。
これが「意識の反転」
──世界が自分の外にあるのではなく、
世界は自分の内から開かれてくるということ。
静けさの奥で、
誰もが一度は聞いたことのある、
その最初の問いが、
ふたたび、胸の奥に甦る。
「私は、どこから世界を見ているのか?」
その問いを携えたまま、
あなたは世界の始まりに立ち会っている。
今この瞬間、見るという行為を通じて。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0