新しい内観法

私たちは長いあいだ、「内観」という言葉の意味を、
感情の点検や思考の整理、あるいは心の静けさの中に見出そうとしてきました。
世界を外から閉じて、自分の内へと向かっていく──

それが、内観の本質だと信じてきたのです。
けれど、私たちはまだ気づいていませんでした。
私たちの「内」と「外」が、そもそもどうしてそう感じられるのかということに。
外とは何か?
内とは何か?
その境界はどこにあるのか?
そして、なぜ「私」という存在は、その中間に立ち上がってくるのか?
ヌーソロジーが語りかけてくるのは、まさにその問いかけです。
そこでは「見る」という行為そのものが、
空間を生成する一つの運動として捉え直され、
主観と客観、内と外、自分と他人とが、構造として組み合わされている。
そしてこのとき、「物質」もまた、
私たちの外にあるものではなく、
自己と他者の空間が交差した、その一点に咲く結晶のようなものとして立ち現れます。
特に、素粒子──

それは宇宙の最小単位などではなく、
“視線の交差”が場を折り返したところに現れる、
空間そのものの内的なひだとして理解されていきます。
この新しい内観法では、私たちはもう、心の中だけを見ません。
私たちはむしろ、空間そのものを“見る”意識の立場に立ちます。
どのように空間が生まれ、
どのように内と外がねじれ、
そのねじれの中に「物」が立ち上がり、
それが誰かの視線を引き寄せ、「私」が反射されるのか──

そうした空間生成の映像的直観が、
思考の中に広がってきます。
それはまるで、宇宙の設計図が、
自分の奥底に逆照射されてくるような感覚です。
そして気づきます。
わたしは、世界の中にいるのではなく、
世界が、わたしの“内なる空間”として広がっていたのだと。
見るとは、存在の起源に触れること。
物質とは、自己と他者の視線が重なった場所に芽吹く、透明な意志。
空間とは、内と外の区別が溶け合い、“わたし”が時空とともに生成されている場所。

──これが、ヌーソロジーが示す「新しい内観法」です。
それは哲学でもなく、宗教でもなく、瞑想でもない。
存在そのものを、空間の反転として感じとる、未知の意識の技法。
そして、世界の“内”に立ち返るというよりは、
世界が“内なる生成”として目覚めるための、
新しい眼差しのかたちなのです。