ヌーソロジーが構想している世界

他者視点化とは言ってみれば、言葉=概念で物を見てしまい、その概念が物を対象として浮かび上がらせているということ。
物が対象として見えるなら、あなたは他者視点化しているのだ。これが人間の条件でもあるから、致し方ないことではあるが。

言葉は“聞くもの”であって、“見るもの”ではない。見ることとは空間構文の開きであり、主体化の別名である。
この新たな主体の登場によって、世界は言葉による意味の構文の世界から、見ることによる空間の構文へと移行し、そこでは言葉は、空間構文を喚起する触媒の役割を持つことになる。
この「言葉が空間構文を喚起する触媒となる」とは、どういうことか?

それは、言葉が単なる意味伝達の道具ではなく、「見るという構文そのものを起動させるトリガー」として働くということだ。
たとえば「山」という言葉を聞いたとき、頭の中に意味だけでなく、奥行きや空間感覚、視線の拡がりが生じる。これは、言葉が意味を超えて空間的意識を開こうとしている証拠である。

つまり、言葉は使い方次第で、世界を固定する「説明の道具」にもなれば、世界を開く「空間の起爆装置」にもなりうる。
この意味で、「言葉を論理や概念の組み立てとして使うのではなく、感性の押し上げとして使用すること」が重要になる。詩がまさにその役割を担っている。

詩人の言葉は、何かを明確に説明するためにあるのではない。詩的言語とは、むしろ意味を脱ぎ捨てた言葉であり、その配置や響きによって、聞き手の中に空間的な気づきや視線の開き、奥行きの感覚を生じさせる。

これは、ヌーソロジーで言うところの「ψ9→ψ10」の通常の意味構文から、「ψ10→ψ9(→ψ1〜8)」への反転的構文滑走を意味している。
言葉が、意味を固定するためではなく、意味を“越えて開くため”に使われるとき、それは空間構文を押し上げる触媒となる。
そのとき、私たちはもはや言葉を“理解”するのではなく、言葉を通して自分を“見る”ようになるのだ。
そして、もちろん、この時の“自分”とは世界のことでもある。

つまり、ここでは、主語と客体は分かれてはおらず、空間が“自分を通して”世界を語り始めているような構文が立ち上がってくるのである。
ヌーソロジーが空間構文として構想しているのはそのような世界のことである。