サージウスの死神

satoさっちゃんの本が出た。いや、もう作家の仲間入りをしたのだから、「さっちゃん」ではいくらなんでも失礼だ。敬意を込めて「ヤツ」と呼ぼう。

ヤツの本が出た。去年、群像新人文学賞優秀賞を受賞した「サージウスの死神」が単行本になって発売されたのだ。小説はここ三十年まともに読んだことはなかった。久々に読んだのがこの作品だ。正直、かなりの衝撃を受けた。身内評で言ってるのではない。ひさびさに重金属を感じさせる文章に触れた。いや溶けた重金属というべきか。そんな気がする。わたしは文学には疎い。しかし、この本を満たしている危険な熱は十分感じ取ることができる。この本は、ヘタに読むと脳が焼けただれる。憤怒や情熱などといった人間的な熱によってではない。聖なる悪が帯びた冷熱が一面を覆っているからだ。

 暴力には二つの種がある。一つは「神話的な暴力」と呼ばれる。神々は世界を創造し世界から立ち去った。その不在を在の痕跡として、この種の暴力は人間の生の中に刻み込まれる。戦争、殺人、強姦、監禁……、世界の大半の悪はこの神話的暴力によって引き起こされてきたと考えていい。もう一つは「神的な暴力」と呼ばれるものである。この暴力は言葉の中から言葉を喰い破るようにして出現してくる。それは普段は表面には顔を現さない。人間の仄暗い意識下で、それこそ蛇のようにとぐろを巻いている。しかし、ひとたびそれが動き出すや、たとえ神話的暴力の力を持ってしても制止させることはできない。なぜなら、それは自然そのものに抗う生命の力だからだ。
 一つ例を挙げるとすれば、それは革命である。革命には戦いはつきものだ。しかし、その性格は国家VS国家のそれとは大きく異なる。革命は国家VS個体という場所から始まる。その意味において、革命とは、有機体が自己自身を刷新していくために自己の内部で生起させる戦いである。こうした自己変容に関わる力が神的暴力だと考えていい。その意味で、神話的暴力は種の保存に関わり、神的暴力は種の刷新に関わる。神話的暴力は科学に関わり、神的暴力は芸術に関わる。また、別のいい方をすれば、神話的暴力は律法の神の力であり、神的暴力は詩の神の力である。これら二つの暴力の淵源はともにゾーエーにあるが、このゾーエーの制御と解放こそがエゼキエルの車輪を回す動力となっているのだ。

 さて、現代に神的暴力というものが存在するや否や——いや、気恥ずかしいが、ここはなるべく分かりやすく言い換えておこう。このワンワールド体制に果たして革命というものが起こりえるか否か——。「ヴァリス」に記されているごとく、確かに帝国を滅ぼしてきた者もまた帝国であったわけだが、この資本主義帝国を終焉に至らしめる者は決して帝国とは呼ばれることはないだろう。それは個体でしかあり得ない。徹底した孤独の中で死に向かって直立することのできる個体でしかあり得ない。人は徹底した個体化の中に初めて真の他者を見いだす。天使的結合はそこでしか起こり得ないのだ。死せる神が貨幣に姿を変えているならば、わたしたちは、それらをすべて焼き払い、その灰の中から立ち上る火の精霊を見いださなければならない。この神聖な火によって初めて鉄の精神は聖なる剣となって精錬される。その聖剣を持って現れるのがソドムの天使である。

 「サージウスの死神」とはそんな書物である。本屋に行けばその所在はすぐに分かるはずだ。赤く焼かれた鉄の色。ダビンチの神聖幾何学。グルジェフのエニアグラム。そして、その上に配された擬オカルト的な記号。分裂症患者の数字。この鉄の中に潜む聖なる悪と邪なる善は今や境目をなくし、一体に解け合おうとしている。サージウスの赤褐色が黒と組めば本当の死がやってこよう。白と組めばそれは復活である。ルーレットは回っている。重要なのは頭に飼われた数字ではない。蛇である。ヤツの心の中の蛇が眠らないことを祈る。