8月 2 2025
サロンでは久々に人間の内面と外面のお話。例えば、目の前にリンゴを見るとき、リンゴの表面が反転してリンゴの背景面になっている。この視点が持てれば、自己と他者を表裏一体の関係として空間に内在するものへと変容させることができる。これをドゥルーズにならって、「宇宙卵の卵割」と称した。
現在の人間は内面側でしか空間を見ていない。驚くべきことに「見ること」が何かがまったく理解されていないのだ。図からもすぐに分かるように、「リンゴの手前に自分がいると思っている時点で、世界は他者視点化した眼差しで覆われた世界になっているのである。 「見ること」という行為そのものを問い直すと、驚くべきことに、それが単に「目が捉える」という表面的な事象ではないことが見えてくる。
視線が対象をの反転を通じて背景を出現させ、空間全体を新たな構造に書き換える行為——まさに、見ることとはそのように空間的な次元転換を伴うものなのだ。 さっきの図が示すように、リンゴの背景空間が反転して観察者の方向へと映り込んでいると考えると、見るという行為が単なる外界の知覚ではなく、意識の内部で世界を形成する根本的なプロセスであることが明らかになる。
現在、我々が「外を見る」と思っているその行為は、実際には他者の視点に覆われた世界の投影にすぎません。リンゴの手前に「自分がいる」と考えた瞬間、自分の意識はすでに他者の眼差しの中に埋め込まれ、自らの視点を喪失している。
ここで重要なのは、この「反転」が単なる物理的な反射なんかではなく、意識が空間そのものを内と外の二重構造として作り出されている、という点だ。 この視点に立つと、我々が現在「物理的現実」と呼んでいるものが、いかに他者視点の集合による構造物であるかが浮き彫りになる。
そして、そのことの気づきが「見る」という行為を単なる受動的な知覚から、世界を内外で切り結ぶ能動的な営みへと変容させる契機となるのである。 視点を反転させるとは、この宇宙卵の卵割の構造そのものを、自らの内面において自覚することに他ならない。
このように「見ること」を捉え直すことができたとき、リンゴ一つを目の前に置いただけでも、その内部に広がる無限の空間、すなわち自己と他者が交錯しながら輪舞する創造的空間への扉が開かれてくる。
——どうか空間を空っぽの容器のようなものと見做さないでください。それは自分自身を空虚化させていくことと同じ行為なのです。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0
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ヌースコーポレーション
半田広宣(ハンダコウセン)
著書 「奥行きの子どもたち」「人類が神を見る日」「光の箱舟」他
8月 2 2025
「見ること」の中に潜む自他の絡み合い
サロンでは久々に人間の内面と外面のお話。例えば、目の前にリンゴを見るとき、リンゴの表面が反転してリンゴの背景面になっている。この視点が持てれば、自己と他者を表裏一体の関係として空間に内在するものへと変容させることができる。これをドゥルーズにならって、「宇宙卵の卵割」と称した。
現在の人間は内面側でしか空間を見ていない。驚くべきことに「見ること」が何かがまったく理解されていないのだ。図からもすぐに分かるように、「リンゴの手前に自分がいると思っている時点で、世界は他者視点化した眼差しで覆われた世界になっているのである。
「見ること」という行為そのものを問い直すと、驚くべきことに、それが単に「目が捉える」という表面的な事象ではないことが見えてくる。
視線が対象をの反転を通じて背景を出現させ、空間全体を新たな構造に書き換える行為——まさに、見ることとはそのように空間的な次元転換を伴うものなのだ。
さっきの図が示すように、リンゴの背景空間が反転して観察者の方向へと映り込んでいると考えると、見るという行為が単なる外界の知覚ではなく、意識の内部で世界を形成する根本的なプロセスであることが明らかになる。
現在、我々が「外を見る」と思っているその行為は、実際には他者の視点に覆われた世界の投影にすぎません。リンゴの手前に「自分がいる」と考えた瞬間、自分の意識はすでに他者の眼差しの中に埋め込まれ、自らの視点を喪失している。
ここで重要なのは、この「反転」が単なる物理的な反射なんかではなく、意識が空間そのものを内と外の二重構造として作り出されている、という点だ。
この視点に立つと、我々が現在「物理的現実」と呼んでいるものが、いかに他者視点の集合による構造物であるかが浮き彫りになる。
そして、そのことの気づきが「見る」という行為を単なる受動的な知覚から、世界を内外で切り結ぶ能動的な営みへと変容させる契機となるのである。
視点を反転させるとは、この宇宙卵の卵割の構造そのものを、自らの内面において自覚することに他ならない。
このように「見ること」を捉え直すことができたとき、リンゴ一つを目の前に置いただけでも、その内部に広がる無限の空間、すなわち自己と他者が交錯しながら輪舞する創造的空間への扉が開かれてくる。
——どうか空間を空っぽの容器のようなものと見做さないでください。それは自分自身を空虚化させていくことと同じ行為なのです。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0