広告記事を書くというお仕事

 新著のアイデアを練り始めたものの、早速、仕事の方の広告原稿の締め切りが迫ってきた。日常的な作業をやりながら、宇宙や形而上に思いを馳せるのはかなりしんどい。使う脳みそが全く別々だからだ。しかし俗と聖を同等の価値として見ることができなければトランスフォーマーとは言えない。俗にたっぷりと浸かって、聖空間を恋しがり、聖空間の中を思う存分遊び回ったら、今度は生活のために一生懸命汗を流す。こうした振り幅の広い反復があってこそ生きることが輝いてくる、と言いたいところだが、やはり頭の切り替えはなかなかスムーズには運ばない。さて、どのようにこの難所を乗り切るべきか。

 現在、わたしが担当しているのは某雑誌に毎月連載している2Pの広告ものだ。ヌーススピリッツでお世話になっている精神科医のS博士へのインタビュー記事を要領よくまとめるのがメインなのだが、インタビュー内容が詰められてないせいもあって、テープに収録された内容はいつも「破壊された器」のような状態である。これらを一字一句書き起こし、S博士の発言意図と会社サイドの広告効果のどちらも損なわないように再構成して編集すること。これはある意味、異なった言語間の翻訳作業に似ている。最近読み出したベンヤミンの影響もあって、わたしはつねづねこうした編集の仕事を「器の再生」の疑似体験として楽しまなければならないと考え始めた。ベンヤミンの翻訳論には次のようにある。

すなわち、ある容器の二つの破片をぴたりと組み合わせて繋ぐためには、両者の破片が似た形である必要はないが、しかし細かな細部に至るまで互いに噛み合わなければならぬように、翻訳は、原作の意味に自身を似せてゆくのではなくて、むしろ愛をこめて、細部に至るまで原作の言いかたを自分の言語の言いかたのなかに形成してゆき、その結果として両者が、ひとつの容器の二つの破片、ひとつのより大きい言語の二つの破片と見られるようにするのではなくてはならない。
翻訳者の使命

ベンヤミンはこうした概念をカバラの「シェビラート・ハ=ケリーム(容器の破壊)」から想起している。自社の広告記事の編集ごときにカバラまで持ち出して来るとは、何とも大げさな話だが、事の本質は外していないはずだ。編集作業を行って常々感じるのは、このベンヤミンの言葉が、翻訳という異国語間のトランスレーションのみならず、自己の語りと他者の語りの間のトランスレーションにおいても十分に言えるのではないかということだ。インタビューでも対談でもよいが、それが一つの記事としてまさに思考の中で編集されようとするとき、そこで話し手と編集者(書き手)の世界は必ずぶつかり合い、ガチャガチャと必ず音を立てて互いの形を触感覚で模索しようとする運動が起こっているのが分かる。結果的に明瞭な意味伝達は、それら両者の凸凹がピタッとはまったときに起こる。この張り合わせが不十分だと、印刷された文字さえもぼけて見えるのだ。そうした奇跡的な接着面の形成は、やはり対岸で呼びかけている他者への愛情がなければ難しい。果たして、わたしに愛はあるのか。。うーむ、難しい問題だ。とにかく、どんな仕事もまた、天上的作業となり得るのだ。フレキシブルになること。