儀式的なものの彼方に

 姪の結婚式に出席した。ネクタイとワイシャツが死ぬほど嫌いな私でも、Tシャッにジーンズでは姪の門出にあまりにも礼を欠くということで、ダブルのブラックスーツを新調。朝、着慣れぬ礼服に袖を通して、「おっ、わしってフォーマルも行けるじゃん」とちょっと上機嫌で、会場のZホテルに足を運んだ。

 正装して人々が集まる場所には独自の雰囲気が生まれてくる。服装とは怖いものだ。この独自の雰囲気の場が、個体の出しゃばりを希釈する。そして、誰もが類的存在として個を剥奪され、そこによっこらしょと正体不明の神が降臨してくるのだ。
 かくして、神主さんの祓詞(はらいことば)の奉上で結婚式が始まった。

カケマクモカシコキぃ〜、イザナギノオオカミぃ〜、ツクシノヒムカノぉ〜、タチバナノオドノアワギハラニぃ〜………ハラエタマヒぃ〜、キヨメタメヘトぉ〜。。

 姪っ子におめでとう。と一言心の中でつぶやいた後、例の調子でわたしの悪い習癖が顔を出す。この神主さんちょっと声のキレがないなぁ〜。昨夜は行きつけのスナックのカウンターで若い女の子、口説いとったんかなぁ〜、とか、左側と右側の巫女さんのどっちがかわいい?右やな右、とか、とにかく頭が俗なことしか考えていない。挙げ句の果てには、この式場に列席している人たち誰も、この祝詞の意味を知らんやろうなー、とか、とにかく儀式というものが大の苦手なわしは、普段以上にたわけ者に変貌してしまうのである。ガキと言われてしまえばそれまでだが、だってそうだろ、世の中を見る限り、ほとんどの人が神なんて信じてはいない。にもかかわらず、未だ、冠婚葬祭には神さまが幅を利かせて、人々はそれらを有り難がってポーズだけの礼を取る。それが、日本人としての霊統に対する敬虔さからくるものであればいいが、ただ漠然と機械的に引き継がれてきた習慣に従っているにすぎない。無自覚に神に頭を下げることと、無自覚に神を装うことは同じコインの表と裏である。これが「和」の精神の一番の欠点だ。
 
 確かなことは分からないが、神殿や祭壇に別に神さまがいるわけではなかろう。これらの仰々しい飾り付けには、当然、様々な象徴的意味が盛り込まれていようが、すべては言ってしまえば仮儀(けぎ)である。本質ではない。仮儀といえども、それらが古来より遵守されてきた「形式」である限り、本門としての幾ばくかの力が宿ってはいるのかもしれない。しかし、そうした御利益は、儀式を受ける側の聖なる心に働きかけてくるのであって、俗心まで面倒は見てくれない。別に俗が悪いと言ってるのではない。俗の中に聖を見ることこそがそもそもの「聖」だろ、と言ってるのだ。その意味で言えば、わしらは、いかにも「みなさ〜ん、ここに聖が在りますよぉ〜」と言ってるような場所に「聖」を見る必要なんぞこれっぽっちもない。それは、究極の俗以外の何物でもない。

 オウム事件のときの日本の宗教界、あれにすべては現れている。日本の宗教界はとっくの昔に死んでいるのだ。アクチュアルに、今の人間の苦悩に対処して行こうと考えている坊さんなどいない。中には尊敬すべき人材もいらっしゃるだろうが、まぁ、お経を有り難く読み上げることのできるプロというのが、今のお坊さんたちの定義ならば、それはそれで仕方ないことだ。お坊さんにだって資本主義社会人としての生活がある。(税金ちゃんと収めてくださーい)

 儀式的なものが軽視されていく世の中で最も大事なことは、儀式的なものを守り抜くことではないと思う。儀礼的な行為の中に一体、いかような精神が秘められていたのかをもう一度指し示していくことだ。そのためには儀式の仮面を一度すべて剥いでみるのもアリだろう。無条件に神や仏を祀り上げることは、むしろ神仏に対する最大の不敬ではないのか。というのも、神は本来、友のようにして語られるべきものだと思うからである。

 ということで、ゆいちゃんや、旦那さんを神さまと思って、幸せになってくださいよ。。。

 父と子と聖霊の御名において。。ラーメン。