太陽と月に背いて(4)

Eclipse06
画像はhttp://blog.nsk.ne.jp/stella/archive/month200603.htmlからお借りしました。

  ヌース理論から垣間見える、「シリウス領域へのアセンション」についての話を続けます。
 前回、前々回と――シリウスとは「モノ自体」の世界である――と書きましたが、一体何を言ってるのか意味が分からな~いよぉ~、と頭を抱えて込んでいる方も多いかもしれません。かくゆう僕も10年ほど前までは、シリウスの意味について七転八倒して考えていた部類の人間なので、どうぞご心配なく。多くの人たちにもいずれはっきりとこのことの意味が手に取るように分ってくると思います。

 コ : シリウスとは何ですか?
 オ : 重次元に反映された力の反転作用の意味です。
(シリウスファイル)

 ここでオコツトが言っている「重次元に反映された」というのは、人間の内面の意識の総体と人間の外面の意識の総体が双対性として充満したときの、そこからの新しい力の立ち上がりのことを意味しています。無茶苦茶端折った分りやすい言い方をすれば、科学も宗教も行き着くとこまで行き着いて、もう先がなくなると、そこから「全く別のもの」が現れてくるということです。そうした状態になるとそこから意識は科学的なものと宗教的なものを相互に変換するような調整を自動的に行なうような仕組みを持っており、そのときに互いの等価性を見出す意識が生まれ、その意識の力の発現のもととなっている力が「シリウス」だと言ってるわけです。

 この内容からも分るように、ヌース理論がいう2013年から始まるアセンションとは世界認識の激変、それも物質と意識という両者に対する概念の激変が始まるということを意味します。以前のサイトの「シリウスファイル原本」をご覧になっても分かるように、オコツト情報というのは、そのほとんどが物質とは何かに関する情報ばかりでした。もちろん、感情的な内容や宗教的な概念についてもいろいろと尋ねたのですが、そのほとんどについては無視されました。何の返答も返ってはこなかったんですね。ですから、結果的に、シリウスファイルは物質に関する情報に集約されてしまった形になっているのですが、と言って、オコツトがよこして来た物質情報は、地球科学が言うような無味乾燥なエネルギーの塊としての物質のことでは全くありません。オコツトに言わせれば物質の本質とは霊そのものなのです。

 物質=霊。

 こうした見方に立つことは、ある意味、従来の物質的世界観や霊的世界観からの脱却を意味します。方や科学では物質は137億年前に起こったビッグバンという出来事から発生してきたものと決めつけられ、方や、宗教ではそのような物質は霊的に低位の存在と見なされ、より高次の霊的な実体を物質とは全く関係のないところに求めようとします。——太陽が持つ明晰な狂気と月が持つ仄暗い狂気。これらはいずれも、物質は物質、意識は意識、というように両者の二元的な対立を相互保証するための、人間の意識が持った一種の症状と言っていいものです。

 このような分離意識が科学的世界観と宗教的世界観相互の間に相容れない対立を呼び起こしていることは今の社会を見ても明らかです。どちらも互いの知識を吸収しようとはしない。もちろん、良心のある科学者たちや宗教者たちは、こうした分離はよくないということをよく分かっているので、物理法則は美しい。この美しさの背後にはきっと偉大なる何らかの存在がある、と言う科学者もいれば、神の御心はすべてにつながっている、このつながりの力は万物に浸透しており、物質もまたその例外ではない、と語って、科学的なものをもまた救済の対象とする宗教者たちもいます。しかし、互いに遠慮があるのか、はたまた互いの利権を保証し合おうとしているのか、それら両者が積極的に歩み寄り、この二つのものを統合しようとする知の営みは、現在の学問の世界の中にも宗教世界の中にもなかなか見当たりません。

 こうして、知的権力は科学に、知的権威は宗教に、といったような最悪の妥協が引き起こされてくることになります。僕ら一人一人の魂はつねにこの対峙する二つの巨大な無意識の流れに引き裂かれ、現実的(俗的)なものと理想的(聖的)なもの、客観的なものと主観的なもの、父親的なものと母親的なもの、男性的なものと女性的なもの、超越的なものと内在的なもの、という種々の二元的な対立の間で、それらの間を反復することが「安定」だと教えられ、今も尚、この共に嘘っぽさを孕んでいる両者の知識の狭間で、深い苦悩の中に佇み続けているわけです。

 問題は科学や宗教にあるのではなく、この両者の引き裂かれにあります。ヌース理論が科学も宗教も同じコインの表と裏にすぎない、とつねづね言っているのはこうした理由からだと思って下さい(つづく)