「今」に降り立つ天使たち

「天使の顔は過去を向いている」と言ったのはベンヤミンだったか、それともクレーだったか。楽園(奥行き)から吹いてくる風はいつも逆風で時を未来へと運んでいく。この風のせいで天使は「今」に降り立つことができない。それゆえ歴史はその都度この「今」を破壊し、そこに瓦礫の山を積み上げてきた。今やその風は、あのユダヤの過越しの風のような勢いで吹いてきている。
 
「今」に降り立つためには、物の中(内包=持続)と物の外(外延=時空)を自由に行き来できるような空間認識が必要だ。それが4次元認識というものでもある。4次元認識が生まれてくることによって初めて見るものと見られるものが一つになる世界観が生まれ、またそこには、自己と他者が真に結びつくことのできる世界も見えてくる。
  
4次元は観測者を含めないと思考できない。逆に言うなら、観測者が3次元の中に入り込んでくると、そこは4次元になる。そして、この4次元は〈見る〉方向と〈見られる〉方向の二方向に分かれ、それぞれ持続と時間という二種類の4次元感覚を意識に与え、前者は内包、後者は外延という位置関係に分配されている。
  
「現在と共存する過去」というわたしたちの意識的現実はこのようにして、身体の前(見る)と後ろ(見られる)という空間把握と同時に生み出されているものなのだ。今の私たちがいかに「見られる」側への一方的なバイアスの中で世界を構成しているかが分かるだろう。
  
ヌーソロジーが素粒子について執拗に語り続けるのも、この「失われた前」を取り戻すためだ。それが「消された存在」の正体でもあり、またそれは「生きている死」の世界のことでもある。
 
表象の世界に飽きた人には、是非、この4次元世界への侵入をオススメする。このルートを通して内包から外延へと意識が赴くことができるなら、宇宙はまるごと反転し、物質的自然はまったく新しい姿へと自らを変貌させてくることだろう。
 
明かしえぬ共同体。無為の共同体・・・。呼び名は色々とあるだろう。その中ですべては共に存在し、一つの歌を歌っているのだ。