2月 16 2008
愛と青春の旅立ち
さて。前回図に示したケツァルコアトルの多重の旋回ルートだけど、これをケツァルコアトル自身から見るとどんなふうに見えるか………そう、オカルト好きな人にはもうおなじみだね。ヘクサグラムに見える。それも無限に続くヘクサグラムの回廊だ。このことから、ケツァルコアトルという羽の生えた蛇はカバラで言うところのケテルの中心に配置されている神の眼と同じものだ。つまり、ヌース的に言えば、「4次元空間というものが見ること自体だと気づくこと」。これが、このヘクサグラムの中の眼が見開くことと同じ意味を持つことになるわけだね。
ケテル(神の至高世界)において神の眼が開くと、それは一番下位のマルクト(物質世界)というセフィロトにつながっているために、マルクトにその眼差しが注がれてくることになる。これは、僕が今度の『アドバンスト・エディション』の前書きで、創造の八日目と創造の一日目に起こる新旧二人の神の眼差しの交差と呼んだものと同じものだ。これはプラトン風に言えば、「想起」が始まるということだ。プラトン・フリークだったプロティノスはこれを「帰還(エピストロペー)」と言い換えた。長い間、ヘクサグラムの中に閉じ込められていたカゴメの中の鳥さんが篭の中から解放されて、光の発出が始まるというわけだ。ほら「篭」っていう字をよく見てごらん。笠を被せられた竜って書いてあるだろ。これはわしらのことだよ。巷で次元上昇、次元上昇と騒がれ出しているけど、そうしたアセンション・ブームの背景にはこうした古代思想の源流がもとになっているわけだね。
ヌース理論からナマなことを言わせていただければ、カバラがまずかったのは、ケテルの中の眼を一つしか書かなかったことかな。眼が一つのときは本当は神の眼は閉じてるってことなんだ。つまり、眠っている。ほんとうは眼は二つないと神の眼は開かないんだな。で、眼が一つだとヘクサグラムは神の花嫁の世界、つまりマルクト(物質世界)においては3次元空間として介入してくる。僕が今度の本で3次元を平面に見立てて説明したのもそのへんの意図を持っている。でね、この3次元空間というのは、実はこれって神の睾丸、つまり、キンタマちゃんのことなんだ。そして、このキンタマの中には神の精子がふんだんに詰まっている。へへ、わしだって、まだいっぱい詰まっとるわい。
で、古代の人たちはその神の精子のことを何と呼んだかというと、ロゴススベルマティコス(種子としての言葉)と呼んだんだね。この精子を神は地球というオチンチンを通じてイエソドという月(神の花嫁の子宮に当たる)の世界に流し込みたいって思ってるわけ。
人間の生活におけるセックスとは何の射影なのですか?
オリオンとプレアデスの交差です。
あなたがたの存在そのもののことです。(シリウスファイル)
わぁっ!!差異と反復ぅぅぅぅ。
もう一度言うと、イエソドってのは天体でいうと「月」だ。僕が「女なるもの」とか「ケイブ」とかいつも書いてるやつね。精神世界の人たちがプレアデスと呼んでいるものもこの場所にある。言うなれば、人間の無意識の場所。ニーチェ風に情動の海としての肉体とも言い換えていい。ヌースがいう次元観察子ψ1〜ψ14、ψ*1〜ψ*14、つまり総計「28」の場所=コーラのことなんだ。おっと、ここではヌース原論は控えないとね。
男のタマタマちゃんの中の精子にデキがいいヤツと悪いヤツがいるように、言葉にも当然、受精能力を持っている言葉と持っていない言葉とがある。「ありがと」とか「おかげさまで」とか「君が好き」とか「愛してる」とか、そうした言葉が本心から出たときは、それは神の花嫁を受胎させる能力を持っている。でも、「死ね!!」だとか「うぜぇー」とかにはそれがない。だから、今の世界は不妊症というか無精子症を患っていると言っていいかもしれない。TVとか見てるとそんなのばっかりだもんね。
言葉の汚い、きれいは別にして、この受精能力のあるかないかは、すべての言語の種類の中に反映されている。数学で言えば代数的(関数)なものと幾何学的なもの。関数は「アドバンスト・エディション」でも書いたように数量的な計算機械として機能している。だから、光を持っていない。つまり、月への方向性がないんだ。どこが卵子か分からずに膣の中でウロウロして、結局は疲れ果てて死んでしまう。幾何学は関数とはもちろん深〜い関係を持っているけれども、その本質は全く別もの。幾何学の方には神の純粋なDNAがふんだんに含まれている。数が数量として動いている限り、数は幾何学と合体できない。神道風に言えば、数が数霊として働いたときに初めて、数は形霊としての幾何学と合体できるわけだ。
文系的には律法的言語と詩的言語がそれに対応するかな。律法的言語、つまり、六法全書とか契約書とかに書かれているあの無味乾燥なオカタイ言葉ね。定義がどうだの、公理がどうだの、とこうるさい税務署のオジサンみたいなやつ。ドゥルーズ=ガタリという二人組のstar fuckerたちはそうした言語の機能のことを「登録の生産」と呼んで、これが専制君主機械を作り出すって言ってた。つまり、専制君主機械というのは、大雑把に言えば国家のことだ。前にも言ったように、ここでも玉が囚われの身になってるだろ。数量、カネ、物質、国家、科学、そして近代的理性、これらは全部、セトの機械として連動して動いている。でもこれらが悪者だと思っちゃいけないよ。無意識の進化の必然だ。キリスト教的に言えば、みんな「水の受難」なんだよ。いちど魂は水の中に沈められて、ウガウガ、ブクブク、ゼーゼー、苦しまなくっちゃいけないんだ。これが人間という次元における「負荷」だ。
で、一方、詩的言語ってのは受胎を行うためにはとても重要なものだ。特に詩に使われているメタファー(隠喩)やメトニミー(換喩)ってのは、女なるものが卵巣に生み出す卵子そのものの構造と共振する力を持っているんだ。だから、これらは女の言葉、女の論理と言っていい。だから、メタファーやメトニミーを持たない奴は女を喜ばすことができない。つまり、テクがないわけだ。
あれっ? また、話が訳の分からない方向へ行っとる。神の目の話はまた次回に回すとして、今日のところはちょっとPOPにまとめておこう。
神の花嫁は4次元の扉の向こうで純白のウェディングドレスを着て待ってる。君も「愛と青春の旅立ち」のあのリチャード・ギアのような優しい笑顔で,ずっとずっと待ってた彼女を迎えに行ってやれ。——こここでJoe CockerのUp Where We Belongが流れてくる。。。いいねぇ。いいねぇ(^^)
※「不妊症」とか「無精子症」とか一部不適切な発言があったことをお詫び申し上げます。ヌース理論では、人間のほんとうの存在意義は新しい宇宙の子供を作ることだと思っています。たとえ、不幸にもこの地上でそうした症状に陥ってしまったとしても何も悩むことはありません。毎日を、未知なる子供たちの誕生のために元気よく頑張りましょう!!
7月 16 2008
時間と別れるための50の方法(20)
●身体空間の奪回に向けて
しかし、頭ごなしに3次元の球空間を一本の線分として見ろ、と言われてもなかなか納得がいかれない方も多いかもしれません。ここはおそらく概念の肉付けがまだ不足しているのです。レクチャーでもつねづね言ってきたように、概念(conception)とは、その語源から言って孕む(conceive)ものでなければなりません。何を孕むのかといえば、それは身体的感覚です。
もちろん数学や幾何学にもそれぞれ固有の概念はありますが、それはあくまでイデアの転倒した姿である理性としての概念であり(精神世界でオリオンの暗黒面と呼ばれているものに当たると思われます)、こうした転倒のロゴスには身体感覚としての受肉が存在していません。
この転倒を再度ひっくり返してイデア本来のイデア、すなわち、ヌース(第一知性)がその知の対象とする創造的なイデアへと変身させるためには、理性(種子=ロゴススペルマ)を感性(母胎=マトリックス)へと着床させる必要があるのです。概念を真のイデア(理念)として孕みたいのであれば、ここはモノから広がる3次元の球空間が文字通り一本の線として見えてくるような感覚的一致を身体感覚の中で構成する必要がでてきます。
モノから広がっているように見える3次元の球空間を一本の線分のように見て取る身体感覚………果たしてそれはどのようなものなのでしょうか。
ここで次のような思考実験をしてみましょう。
今まで、ψ3~ψ4の球空間の在り方を説明するために、皆さんにモノの周りをさんざん回ってもらいました。しかし、ここで、モノの回りを「わたし」が回っているという認識を逆転させて、実は「わたし」の方は不動で、モノを中心とした3次元空間自体の方が回っているのだと考えてみるのです。運動が常に相対的なものであるならば、そう考えても一向に差し支えはないはずです(下図1参照)。
もし、空間側が回っていると考えるなら、ψ3とψ4として構成されてくる球空間は、モノから背景空間に突き抜けていると思われる視線と、モノからわたしの顔面に向けられた想像的な視線の中に構成されているものであり、結局のところ視線とそっくりそのまま一致してくることが分ります。特にモノからその背景へと突き抜けていった視線が形作っているψ3の球空間の方は、今までお話してきたように、その数学的性質から言って時間がない(虚時間)世界だと考えてよいわけですから、ここで起こっている空間の回転という運動の表象がもたらす時間の経過を考慮する必要がありません。20世紀初めのキュビストたちが見出したあの空間のように(ピカソ『泣く女』参照)、ここではモノとしての表象はその周囲のあらゆる方向からの見えを綜合させたかたちで無時間的なモノ、つまり主観的な概念としてのモノとして存在させられています。
そして、このようにして構成された空間にはただ視線という線が存在しているだけです。つまり、このことは身体を起点とした側における空間から見た場合、ψ3におけるモノから広がる3次元の球空間は「視線」と同じものと考えてよいということになります。
一方、ψ4の球空間側の方はモノの手前に眼球という「モノ」を想定させられているので(ψ4が鏡像から派生していたことを思い出しましょう)、「まさにその中でモノが見えるということが可能となっている」実存としての線分(主観線)を、単に3次元空間内部の線(客観線)としてしか見て取ることができません。つまり、ψ4の球空間側ではモノと「わたし」を結んでいる視線が3次元空間内部の線概念と同一化させられてしまっているわけです。モノがモノを見ることなどたぶんできないと考えられるので、こうした空間の中で捉えられた眼球はモノを見ることなどおそらくできないでしょう。
その意味で、モノが見えるということ、言い換えれば、世界が目の前に開示している現象(phenomenon)というのは、それ自体が3次元空間からは完全に差異化した4次元空間で起きている出来事であり、この差異に気づけていない光ならざる認識がその差異自体を時間の経過として感じ取ってしまっているのです。時は流れず、されど流れゆく時。絶えず「今」であるにもかかわらず、瞬間という名の別の今が今の中を点滅する回転計のライトのように流れて行く。このように「人間」とはその不動と動の間に立ち起こっているパラドキシカルな出来事なのです。
ここで、「いつでも今(差異化の起こっている位置)」と「瞬間(3次元との同一化が起こっている位置)」の関係を前回示した図の中で比較してみると、下図2のようになります。
差異化した位置はψ3の球空間が形作る球面を点と見なし、その点は必然的に3次元空間上の無限遠点となり実存的な位置(わたしが世界に「いる」という持続感覚をもたらしているもの)を形成します。一方、3次元空間に同一化した方の位置はψ4の球空間が形作る球面上の一点に固定され、時間の流れの中に投げ込まれた3次元空間上の想像的位置(物質的肉体として「わたし」が「ある」という感覚をもたらしているもの)を形成します。
以上のような考察から次のようなことが言えそうです。
4次元空間における線分とは見ることそのものを構成する実存的視線のことであり、4次元時空における線分とは見られることそのものを構成する想像的視線のことである。そして、前者は光そのもののことであり、後者は光のかけらのことである。光のかけらを拾い集めて光を作り、そして、今度は光を束ねて、光の幹を作り、そこで伸びゆく光の樹木を天上の太陽にまで育て上げること。
ヌース理論が目指す次元観察子の創成は、その意味では、古代におけるグノーシス者たちの身振りとも言ってよいものなのです。——つづく
By kohsen • 時間と別れるための50の方法 • 0 • Tags: オリオン, グノーシス, ロゴス, 無限遠