7月 18 2025
意識について思考するためには
意識について思考するには、まずは4次元認識を作らないといけません。4次元認識は主体の位置が無限遠点にあることが分かって初めて生じてきます。それによって、自己と他者を「人間」という概念で一括りにしていた3次元の認識の縛りが解け、意識を高次元空間の生態として思考することのできるゲシュタルトが生まれてきます。
4次元認識が生まれると、自己と他者の位置は背中合わせで繋がっていることが分かってきます。両者の間では、前と後ろが逆に構成されているということです。3次元の表と裏が捩れて表裏一体で繋がっているわけですね。メビウスの帯の球体版のような形です。数学的にはこの形は3次元球面S^3と呼ばれています。
主体が無限遠点の位置を認識すると、従来の3次元空間はコンパクト化を起こし、大きさや距離という概念が無効になるような世界に出ます。3次元的な内部と外部が意味を持たなくなる(外部=内部、内部=外部)のですから当然のことです。それが素粒子空間だと考えるといいと思います。4次元認識は主体の位置を素粒子内部に移動させるということです。
哲学と物理学は、このような「場所」において初めて合流することができてきます。




9月 22 2025
新しい内観法
私たちは長いあいだ、「内観」という言葉の意味を、
感情の点検や思考の整理、あるいは心の静けさの中に見出そうとしてきました。
世界を外から閉じて、自分の内へと向かっていく──
それが、内観の本質だと信じてきたのです。
けれど、私たちはまだ気づいていませんでした。
私たちの「内」と「外」が、そもそもどうしてそう感じられるのかということに。
外とは何か?
内とは何か?
その境界はどこにあるのか?
そして、なぜ「私」という存在は、その中間に立ち上がってくるのか?
ヌーソロジーが語りかけてくるのは、まさにその問いかけです。
そこでは「見る」という行為そのものが、
空間を生成する一つの運動として捉え直され、
主観と客観、内と外、自分と他人とが、構造として組み合わされている。
そしてこのとき、「物質」もまた、
私たちの外にあるものではなく、
自己と他者の空間が交差した、その一点に咲く結晶のようなものとして立ち現れます。
特に、素粒子──
それは宇宙の最小単位などではなく、
“視線の交差”が場を折り返したところに現れる、
空間そのものの内的なひだとして理解されていきます。
この新しい内観法では、私たちはもう、心の中だけを見ません。
私たちはむしろ、空間そのものを“見る”意識の立場に立ちます。
どのように空間が生まれ、
どのように内と外がねじれ、
そのねじれの中に「物」が立ち上がり、
それが誰かの視線を引き寄せ、「私」が反射されるのか──
そうした空間生成の映像的直観が、
思考の中に広がってきます。
それはまるで、宇宙の設計図が、
自分の奥底に逆照射されてくるような感覚です。
そして気づきます。
わたしは、世界の中にいるのではなく、
世界が、わたしの“内なる空間”として広がっていたのだと。
見るとは、存在の起源に触れること。
物質とは、自己と他者の視線が重なった場所に芽吹く、透明な意志。
空間とは、内と外の区別が溶け合い、“わたし”が時空とともに生成されている場所。
──これが、ヌーソロジーが示す「新しい内観法」です。
それは哲学でもなく、宗教でもなく、瞑想でもない。
存在そのものを、空間の反転として感じとる、未知の意識の技法。
そして、世界の“内”に立ち返るというよりは、
世界が“内なる生成”として目覚めるための、
新しい眼差しのかたちなのです。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: 素粒子