10月 16 2025
ヌーソロジーは何を反転させようとしているのか
どこまで理解してもらえるかわからないけど、ヌーソロジーが目指しているのは、「見る」という行為そのものが、世界の“始まり”であるという新しい認識への転換なんだよね。
現代科学や常識的世界観では、人間の「見ること」は、すでに出来上がった物質世界をあとから把握する受動的な行為として理解されている。
「物質が存在している → それを意識が見る」
という順序だね。
けれども、ヌーソロジーの視点では、その順序はまったく逆になる。
「意識が見る → 物質が現れる」
この“見ること”とは単なる視覚ではなく、意識が対象を「立ち上げる働き」そのものという解釈になる。言い換えるなら、「物がある」という出来事の根源は、観測者の見る働き=生成する働きにある、ということ。
このように考えると、「世界」とは、意識の中で他者と交差する“視線の場”から生成されていて、物質はその場に立ち現れる出来事にすぎないことがわかってくる。つまり、「見る」ことが、世界の始まりそのものなのだ——ということ。
これこそが、ヌーソロジーがやろうとしている最大のパラダイムシフトなんだね。
世界を「既にあるもの」として見るのではなく、見ることそのものを“創造の起点”と捉え直す。これが、人間と宇宙との本当の関係性の理解へとつながっていく。
この視点の転換が広まれば、「科学」と「精神」の対立も次第に解け、私たちの生の意味そのものが、より根源的な次元で問い直されることになるだろうね。
10月 17 2025
存在の摂理
私たちが「世界を見ている」とき、実はその“見る”という行為自体が、すでに生成の方向性と時間の持続性を作り出し、他者の眼差しとの交差点で、物質という出来事を生成させている——まさに結び(産霊)だ。
それは外にあるのではなく、意識の中の、しかも最も深い根の部分で起きている現象だ。だからこそ、ヌーソロジーは言う。
世界は、外にあるのではない。自分と他者の交差の中で、互いの深みにある意識の共振が“世界”を創っているのだ、と。
「明しえぬ共同体」の謎もここにある。しかし、今はそれが裂け目としての”物質”になっている。視点が入れ替わっているからだ。
——一方では引き裂き、
——一方では結ぶ。
それが存在の摂理であるということを思い出そう。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0