3月 10 2005
ネクラとネアカの相互反転
今日は仕事を終えた後、二人の甥っ子であるD&Wブラザーズを引き連れて「やまなか」という店に行った。
Dは大学が休みで博多に久々の帰郷、Wの方は高校卒業、それぞれのお祝いをかねての男3人のパーティーである。「やまなか」は古い家屋の内部をコテッジ風に改装して、「都市の中の隠れ家風」を狙った瀟洒なイタリアンレストランである。会社から歩いて5分ぐらいのところに、こうした店ができるのは大変ありがたい。結構、気にいっていて、会社での接待なんかにもときどき利用させてもらっている場所だ。
店に入ると、さっそく、コルトレーンのアルバム「Ballads」がお出迎え。おっ、いい趣味してるじゃん。このアルバムは高校生の頃に隠れて通っていたジャズ喫茶でいつもリクエストしてたっけ。とくにA面1曲目の「Say it」は最高。彼女を自分の部屋に呼んで口説きたい人にはオススメの一曲。あまりに官能的なサックスの音で体がとろけそうになる。コルトレーンはこういう甘いメロを吹かせても絶品!! まっ、とろける音楽については、いずれ別のところでヤルことにして、この甥っ子兄弟、若いのになかなかおもろい連中である。兄のDは建築家志望、弟のWはマルチアーティスト志望。ともにまともな就職などする気なんぞはなからない。働くことを人生の価値などにおいていない。いいねぇ〜。10〜20代の若者はこうでなくっちゃ。わしなんて30代に入ってもそうだったんだから。。 連中は、たまにわたしの自宅に遊びにきては、文学のこと、映画のこと、音楽のこと、ヌースのこと、その他もろもろ、とにかく、硬軟問わず、カルチャー全般について何の脈絡もなくダベっては帰って行くのだが、今日も、例によって、連中とのサブカル談義に話が弾んだ。
Dは21歳、Wは18歳ぐらいだと思うが(実は正確な年を知らない……いや、年など聞いた事がない)、二人とも同年代に話が合う友人がいないと言う。それは無理もない。Dは大学で建築を学び、ハイデガーが好きだといい、D・リベスキンドというたぶんほとんどの人が知らないような建築家の話を、あたかも憧れのロックスターについて語るかのように熱弁する。一方、Wの方は音楽学校でコンピュータ・ミュージックをシコシコ学んでいるのだが、彼の夢は柳田国男のような民俗学研究をやりながらRadioheadのようなバンドを作ることらしい(一体、なんだこいつは?)。確かに、話が合うわけがねぇーだろーなぁー。これは単に想像の域を出ないが、友人サイドから言えば、甥っ子たちは、いわゆる「暗れぇー奴」と呼ばれる種族に当たるのかもしれない。しかし、わたしには、こやつらがネクラな悲観主義者なんぞには全く見えない。それぞれに自分の闇を直視し、それを糧として、何か創造的なことをやろうとりっぱに自主独立をたくらんでいる。ネクラどころか、自分のやりたいことがそれなりに見定められているだけにむしろネアカな連中じゃないか。毎日、カラオケに合コン三昧、服と食い物とスポーツにしか興味がないアホガキどもの方がよっぽどネクラだ。あー、オレって、なんて、いい伯父さんなんだろ。じ〜ん。
オウム事件以降、若者が精神的な価値についてあからさまに語ることは半ばタブーになった。ヌースのレクチャーにくる人たちもこぼしていたが、神や人間について語れる場所がどこにもなくなってきた、というのである。おそらく、彼ら、彼女らも世間一般では「ネクラ」と呼ばれる人種に当たるのかもしれない。その傾向は、携帯電話の世の中になってますますエスカレートしてきている。スリムな情報、コンパクトな情報、インスタントな情報、というように、情報自体のフラグメント化があちこちで起きてきているからだ。検索システムで一体何が分かるというのか。人生の目的や、人間の価値や、自分の幸福などといったカテゴリーはどこを検索したって見つかりやしない。もっと、若い連中が魂や霊性について、面白く、堂々と語り合える生(なま)の場所が必要だ。——皆、心の中は愛でいっぱいなのに、それを吐き出せる場所がどこにもない。こういう、対話の場所をたくさん持ってあげないと。。。——と思いつつ、こいつら何でも食え、といったら、本当に、食いたいだけ食いやがっちまったぜ。何い〜、1万7000円だとぉ〜!!!
3月 31 2005
ヌース理論とオカルト
トーラス、チョコボ、S、G氏の4人は午前中、博多を後にし別府へと向かった。昨夜は4人ですき焼きをつつきながら、明け方近くまでヌース関連の話題で話が弾んだ。
スペインに10年近くガイドとして滞在していたS氏はヌース理論は日本よりもヨーロッパの方がはるかに受けいられやすいだろう、と話していた。というのも、特にスペインなどは大卒レベルの学歴がある人であれば、歴史や文化の背景にオカルティズム(この場合「カバラ」のことを指す)がいかに根付いているかを知っている人が多く、ヌース理論のような現代版オカルティズムはむしろ歓迎されて受け入れられるだろうというのである。
実は、わたし自身にもヌース理論はオカルティズムの正当な嫡子だという自負がある。だから、人にヌースは疑似科学だ!オカルトだ!といった批判を受けても、そうですよ。というしかない。問題なのは、そうやって、オカルト批判している人たちに限って、オカルトについて全く無知な人たちが多いということだ。オカルト映画という言葉が定着してしまったせいか、日本ではオカルトというと何かグロテスクな悪霊信仰の類いか何かのように思っている人もいるし、ひどい人はオカルトとカルトがごっちゃになっていて、オウムのような集団のことを指すのかと思っている人たちもいる。そういった意味では間違ってもヌース理論はオカルトなどではないので、あしからず。
オカルトとは元来「隠されたもの」を意味する。これはキリスト教が異端としてきた古代哲学の地下水脈全般をさす言葉だ。さしずめ日本的に言えば「密教的なもの」といったニュアンスだろうか。
ヨーロッパの歴史や文化は、このオカルト的なもの(密教的なもの)とキリスト教的なもの(顕教的なもの)のせめぎ合いの中で発展してきた。あのルネサンスもオカルト回帰と言っていい出来事であったし、そこから、近代の哲学も文学も芸術も、そして科学さえも生まれてきたのだ。つまり、ヨーロッパ近代の知全般がオカルトをベースに発展してきたと言っても決して過言ではない。ヨーロッパの知識人たちの多くはそのことを深く理解している。しかし、残念ながら、日本の知識人たちはそうではない。日本は明治になって近代化を促すために、ヨーロッパのほんの上っ面だけを急遽輸入し、プログラム化を急いだ。当然、そこで取り入れられた知識は政治、法律、軍事、科学技術といった実学的内容が主であり、宗教、思想、芸術といった文化的なものはほとんど皆無だった。現在の日本人(当然、わたしも含む)の軽佻浮薄なメンタリティはほとんどがこの愚行に起因しているのではないかと思う。実際、G氏はあの天下のT大の哲学科でヴィトゲンシュタインを専攻した哲学青年であるが、彼にT大の哲学の授業の様子を尋ねると、オカルトの「オ」の字も出てこなかった、という。何ぃ〜。哲学の授業にオカルトが出てこない?ヘーゲルだって、ニーチェだって、ハイデガーだって、オカルトなしには存在しなかったろうに。。。これは本当に本当におかしな話なのである。
哲学の父とされるプラトンはアテネでアカデメイアを設立する以前、ペルシア東方のバクトリア王国に滞在し、そこでミトラ教のマギから多くのことを学んでいる。プラトン哲学の基礎は東方のマギたちの世界観にあるのだ。そして、もちろんこの世界観は現在ではオカルトと呼ばれているものの起源である。つまり、プラトン哲学もオカルトなのである。こうした事情が意図的に隠蔽されているのかどうか知らないが、最高学府で哲学を学ぶ学生たちでさえ、このありさまなのだから、通常の知識人に至ってはもう全滅である。
現代の知識人に忌み嫌われるオカルトの系譜。ヌース理論には曲解されてしまったこのオカルティズム的思考を再び、現代に蘇らせる使命もある。それは骨の折れる作業には違いないが、それがなければわたしたちは決して普遍的なものと接続することはできないだろう。
By kohsen • 10_その他 • 2 • Tags: オカルト, カバラ, ニーチェ, ハイデガー, プラトン