「もの」と日本語

円的意識と球的意識。U(1)で止まっているものか、SU(2)を持っているものか。別の言い方をするなら、スピン1かスピン1/2かというところか。本当の球は球面上の一点一点が渦を巻いている。円を回転させてできる球は表面がツルツル。ニセの球しか知らない人間の意識。それが同一性を作る。
 
地球と人間が調和していくためには、人間一人一人が地球上の渦を巻く一点一点にならないといけない。自分という円で地球を覆うのではなく、他者の円との違いを見極め、それらの円と共同して初めて球面が生まれる。一人一人の人間はスピノルに支えられている。
 
そういえば、先日、嫁が面白いことを言っていた。―日本語は球になってる。でも英語は円。日本語は前にあるけど、英語は後ろ―音だけを聞いているとそんな感覚になるそうだ。おそらくこのことは、日本語に主語がないことと関係している。皆さんも一度、聞き耳を立ててみたらどうだろう。
 
となると、日本語は本来、「差異の言語」ということになるのだが、僕も含めて今の日本人を見ていると、とてもそうは思えない。同一化の海にドップリと浸かっている。これは近代教育のせいなのだろうか。自我を超えたものが、真っ逆さまにひっくり返って自我すらないものへと落ちている。
 
実際、スピン1とスピン1/2の空間にも似たような関係がある。スピン1/2の空間はスピン1の空間の上次元に形成されるのだけど、それは、ひっくり返ってスピン1の下次元に顔を出してくる。精神化したものが物質として芽を出すのだ。今の日本人はスピン1空間(自我)の婢女として物質化している。
 
「前」に日本語の命を感じること。それによって日本語はわたしたちの魂に触れる。名指す言語ではなく、「もの」と一体化した言語。球的意識はそのようにして訪れるのだろう。
 
日本語は本当は人間ではなく、「もの」をフランチャイズとしている。これは日常よく見かける次のような表示にも現われている。「ドアが閉まりますので、ご注意ください」。ドアを閉めているのは運転手なのだが、日本語は行為者を消す。決して「ドアを閉めますので、ご注意ください」とはならない。
 
最近はこうした日本語に違和感を感じる若者がいるそうだ。「ドアが自然に閉まるわけないじゃないか。日本語はおかしい。」と。いやいや、おかしいのは君の方だよ。君はあまりに西洋かぶれしている。言葉は本来、人間が生み出したものではなく「もの」が生み出したものなんだから。
 
で、その言葉によって、結果として人間が登場してきた。そういう世界観に戻していかないとね。
 
日本精神、頑張れ。

扉が閉まりますので、ご注意ください