7月 25 2016
世界の復活
「他者視点から世界を見る」というとき、それを単に時間と空間の内部での肉体の位置の遷移のようにイメージしてはいけません。なぜなら、時間と空間というもの自体が「他者視点から世界を見る」ことによって成立してくるものだからです。自他の視点の遷移を行っている内的空間というものが別個に存在しています。
それが複素2次元空間における回転だと考えるといいと思います。物理学でスピノルの回転「SU(2)」と呼ばれているものの本性です。スピノルの回転は自他の観点を規定しているそれぞれ個別の無限遠点を舐めるようにして回っています。この回転は持続空間における回転なので非局所的なものです。
一つの物体を他者と一緒に輪になって囲んでいるとき、そこには無数の肉体の位置を繋いで作られる輪と、自他それぞれの観点を結んで作られる輪の二つが重なり合って存在しています。前者には内と外の区別がありますが、後者には内と外の区別はありません。というのも、観点は無限遠点になっているので自分の後方は向かい合う他者の前方になっているからです。これがメビウス空間が持った本質的な意味だと考えるといいでしょう。
つまり、ここには互いの「奥行き」を交換し合っている密やかな交感の場が活動しているわけですね。「奥行きは縮んでいる」わけですから、ここで生じている輪を真ん中の物体に重ね合わせても何ら問題ありません。この輪で全表面を覆われた物体が古代日本人が「もの」と呼んでいた存在です。
数学的にはSU(2)は3次元球面と同じかたちをしている(同相)と言われていますから、「もの」とは3次元球面という言い方もできます。目の前で物体が自転しているとき、持続空間においては同時に3次元球面が回転し、自他の持続体を一つの球体へとまとめています。その意味で「もの」は自他を自己の視点において統合していると言っていいでしょう。
この統合の結果として3次元の空間と時間、つまり、客観世界が生み出されてくるという仕組みが、素粒子物理の構造の中にはあります。ここには哲学でいうところの内在から超越への仕組みが空間構造として網羅されています。
カントが空間と時間は感性の直観形式だと言い張った、その証明がすでに素粒子物理の中に記されているというわけですね。このことは、時間と空間はわたしたちの外にあるのではなく、内の内に構成されている内在世界だということを物語っています。
この内的空間の方向に意識を向けることによって、世界は始めて宇宙生命と同期した現実存在となります。現在、わたしたちが見ている時間と空間の世界は時間と空間が生まれてくるこのプロセスを見落としているので、「無」同然の中身のない世界だと言っていいでしょう。外の世界など本来存在していないのです。以前、「わたしたちが見ている物質とはハリボテだ」と言った意味もそこにあります。このSU(2)の中からが立ち上がってくるのが物質を作っている原子核(陽子と中性子)です。
理性によって理性を超えること。ここに生まれてくるのがヌース(創造的知性)です。ヌースは今まで宗教やオカルティズムが語っていたことを何ら超越的なものを持ち込むことなく、物質を精神そのものへと裏返す思考によって証明していくことになると思います。その意味で世界とは常に十全かつ完全なものだと考えなくてはいけません。
世界を復活させましょう。わたしたち人間の思考の力で。
6月 14 2017
一本の線の出現から何が始まるのか―
以前、外部は内部だという話をした。これは、君が奥行きの中で感じ取っている宇宙は対象の中にある、ということを言っている。他者についてもおそらく同じことが起きている。その意味で、自他の出会いの場所とは、本当は対象の中にある。人間の意識はこの出会いの中で構成されている。
超越論的な場は対象の中にあるということだね。
こういうと、すぐに物質の中に思考のベクトルが向いてしまいそうだけど、それは賢明じゃない。すでに外部は内部なのだから、目の前にあるがままの空間でその構成を思考して構わない。わざわざ物質の中に入り込むイメージを作る必要はない。空間に自分の不動性を感じたならば、そこはもう物質の内部。
そう考えるといいよ。
そこに出現してくる空間が物理学が内部空間(アイソスピン空間)と呼んでいる空間に対応している。生粋の複素2次元空間だ。「生粋の」と言ったのは、この場所に出るまで、外部と内部が混交した空間が二つあるから。
その二つというのが位置表示の波動関数ψ(r,t)が作る空間と状態ベクトルψが回転している空間と考えるといい。
知覚イメージで言うと、一つの対象周りの空間と自分の周囲の空間。これらはまだ非局所に届いていない。「非局所に届く」というのは、観測者の全奥行きが一本の「線」に収束することを意味している。
つまり、完全なる持続空間においては「わたしは一本の線となる」わけだ。
メスカリンの服用によって、自分という存在が一本の線に還元されてしまったことに詩人アンリ・ミショーは底知れぬ恐怖を感じ、それを「死」の姿と直感したのですが、それは人間の死の形象と言ってよいものだと僕自身も強く感じています。
つまり、わたしの死は、時空間上では物理学が「スピノル(物質粒子のスピンにあたります)」と呼ぶものに姿を変えて見えている(実際には見えるものではありませんが)と言っていいのではないかと思います。
このスピノルはそこから物質を生成していくために、多様な組織化を図っているわけですから、死後の世界は物質を創造する世界になっていると言えそうです。
これまたOCOTのトンデモ情報の話になりますが、その中に「まもなく人間は生きながらにして死後の世界に入っていく」というのがありました。
ヌーソロジーの文脈からすれば、自分を一本の線へと還元したときに世界の構成はどのように見えてくるか、そこで展開されてくる風景が、この「生きながらにして死後の世界に入っていく」ということの意味に相当しそうです。死が開く、ということですね。
こうして開いた死のことを「霊」と呼んでいいのではないかと思います。ヌース(神的知性)を持つ者たちのことです。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: アンリ・ミショー, スピノル, 波動関数