2月 26 2018
見るものと見られるものが一致する空間から本当の宇宙が現れてくる
ヌーソロジーのいう「バイスペイシャル認識」とは、対象を担保している空間(幅支配=時空)と主体を担保している空間(奥行き支配=複素空間)の二重性を意識して空間を感じ取ることを言うのだった。
たとえば、一つの物をじっと見つめているとき、自分が物を見つめているのか、物が自分を見めているのか分からなくなってくる経験を誰もがしたことがあるのではないか。これは、視点それ自体が事物と一体なっているということの認識とも言える。
ヌースに登場する「表相」という概念もそれに近い。非局所的線分(精神の位置)と局所的線分(物質的線)が対象の奥行き部分に重なって現れているのだ(下図参照)。
このような認識のもとでは、知覚はもはや表象ではない。
こうした新しい空間認識のもとで、主客一体の世界観を具体的に作っていくことがヌーソロジーがやりたいことだ。また、それが新しい時代の霊的認識と呼ばれるものでなければならない。
複素空間は無底の空間だ。この無底にこうした一本の抽象線が引かれることによって、人間側から言うなら、物質は構造化されていくし、構造側から言うなら、構造は解消されていく。
立ち入り禁止区域の立て札はすでに外されている。
侵入を開始しよう。
3月 30 2018
ヌーソロジーの空間認識(バイスペイシャル)は何を目論んでいるのかー再確認の意味で
奥行きが純粋持続の場であるということに関しては、ツイッターでも何度も話しました。奥行きで世界を見始めると世界は内在に内在するようになります。つまり、外在という概念が消えてしまうということです。
正確に言うと、外在と内在はもはや対立的なものではなくなり、今まで外在と見ていた世界も内在に従属したものに見えてくると言うことです。外在が内在に従属すると、時間の発生の現場が純粋持続の場側から目撃されてくることになります(ここに働くのがSU(2)です)。
普通、物質は時間と空間の中にあるものとして考えられています。ですから、奥行き認識においては物質は存在しません。そこにあるのは持続の知覚です。奥行きは外在側から見ると無限小として把握されるので、奥行き知覚自体は物質の内部側を拠点にしており、物質はどこを探しても見当たらないのです。
見える物質(表象)は幅化した奥行きが浮上させています。その表象を持続させているのが、その下で働く真の奥行きです。幅化した奥行きと真の奥行きは、物質の瞬間像とその把持と言う形で互いに役割を分担しているわけですね。
奥行きの覚醒によって、素粒子は消え去るのではないかと考えています。なぜなら、奥行き自体が素粒子のスピンに当り、主体と客体がそこで一致を見るので、素粒子はもはや対象ではなくなります。
そして、この奥行きが形作っている幾何学的な組織が即自的にイメージされてくると、素粒子はかつての自分の経験的意識を構造していた空間的な身体であるということが分かってきます。
肉体は肉体だけでは身体とは呼びません。肉体、およびそれを支えている4次元時空には、持続によって構成された高次の空間的身体が重なり合って存在しています。俗に「肉体に宿る魂」という言い方がよく為されますが、その「魂」に当たるものです。それが素粒子なのです。
肉体から魂が抜けると魂は霊界へ行くという話も聞きますよね。私たちが奥行きに目覚めるというのは、これと同じような意味を持つと言えるかもしれません。
つまり、真の奥行きが知覚され始めると、かつての奥行きとは全く違うものになり(幅化により生まれていた距離は消え、空間は非局所になるるということ)、そこに死の身体が顕在化し始めるということです。
そして、このときに目覚めてくる死の身体とは、幅認識の世界で「原子」と呼ばれていたものだということが分かってきます。原子とは、持続空間において、認識が物質を主客一体のものとして思考している様子だと考えるとよいでしょう。
素粒子はその内的原子の場所に準拠して人間に経験的意識をを持たせるように働いています。これが人間の個体化のシステム(超越論的なもの)の意味です。
ヌーソロジーでは内在に内在するようになった、このような原子のことを、物質的原子と区別して「元素体」と呼びます。この元素体が「ヒトの精神」と呼ぶものに相当してきます。
この辺の話のあらましは昨年9月に出したシュタヌー本の方に結構詳しく書いていますので、参考にされて下さい。
『シュタイナー思想とヌーソロジー 物質と精神をつなぐ思考を求めて』 半田 広宣 ・福田秀樹・大野章
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: SU(2), シュタイナー思想とヌーソロジー, 奥行き, 素粒子