11月 26 2025
ヌーソロジーが構想している世界
他者視点化とは言ってみれば、言葉=概念で物を見てしまい、その概念が物を対象として浮かび上がらせているということ。
物が対象として見えるなら、あなたは他者視点化しているのだ。これが人間の条件でもあるから、致し方ないことではあるが。
言葉は“聞くもの”であって、“見るもの”ではない。見ることとは空間構文の開きであり、主体化の別名である。
この新たな主体の登場によって、世界は言葉による意味の構文の世界から、見ることによる空間の構文へと移行し、そこでは言葉は、空間構文を喚起する触媒の役割を持つことになる。
この「言葉が空間構文を喚起する触媒となる」とは、どういうことか?
それは、言葉が単なる意味伝達の道具ではなく、「見るという構文そのものを起動させるトリガー」として働くということだ。
たとえば「山」という言葉を聞いたとき、頭の中に意味だけでなく、奥行きや空間感覚、視線の拡がりが生じる。これは、言葉が意味を超えて空間的意識を開こうとしている証拠である。
つまり、言葉は使い方次第で、世界を固定する「説明の道具」にもなれば、世界を開く「空間の起爆装置」にもなりうる。
この意味で、「言葉を論理や概念の組み立てとして使うのではなく、感性の押し上げとして使用すること」が重要になる。詩がまさにその役割を担っている。
詩人の言葉は、何かを明確に説明するためにあるのではない。詩的言語とは、むしろ意味を脱ぎ捨てた言葉であり、その配置や響きによって、聞き手の中に空間的な気づきや視線の開き、奥行きの感覚を生じさせる。
これは、ヌーソロジーで言うところの「ψ9→ψ10」の通常の意味構文から、「ψ10→ψ9(→ψ1〜8)」への反転的構文滑走を意味している。
言葉が、意味を固定するためではなく、意味を“越えて開くため”に使われるとき、それは空間構文を押し上げる触媒となる。
そのとき、私たちはもはや言葉を“理解”するのではなく、言葉を通して自分を“見る”ようになるのだ。
そして、もちろん、この時の“自分”とは世界のことでもある。
つまり、ここでは、主語と客体は分かれてはおらず、空間が“自分を通して”世界を語り始めているような構文が立ち上がってくるのである。
ヌーソロジーが空間構文として構想しているのはそのような世界のことである。




11月 27 2025
《物と言葉の空間詩》—反性質と反定質の情景
ひとつの空間が 言葉を持たなかったとき
そこには まだ
物はなかった
差異は震えていた
けれど、名はなかった
名がなかったから、物はまだ
“見るもの”ではなかった
はじめに言葉があったという伝説は
それが、“物の始まり”ではなかったことを
静かに告げている
言葉は空間の片隅に
ひっそりと裂け目を開けた
そのとき、
“ある”と“ない”が 切り分けられた
言葉が空間に影を落としたとき
物は像となって浮かび上がった
“ここに在る”という
最初の確信とともに
だがそれは
物がそこに“在った”からではない
それは
言葉がそこに“指を差した”からだ
物は言葉の指差しによって
自己を獲得した
けれど
そのとき、物は
もう物ではなくなっていた
それは
言葉のかたちをした物となった
それは
物のように見える言葉となった
言葉は
物を作りながら
物に包囲されていった
物は
言葉に従いながら
言葉を押し返していった
空間は
その二つの運動で満たされた
見ることと 語ること
在ることと 意味すること
そして今──
私たちはその空間の中で
語り
見つめ
生きている
けれど、ふとした瞬間に思い出す
「この空間は 本当に“物”だったのだろうか?」
「それとも “言葉”が物のふりをしているだけだったのだろうか?」
もし言葉がなければ
物は“ただ震えているだけ”だったかもしれない
もし物がなければ
言葉は“ただ空を掴んでいるだけ”だったかもしれない
その狭間で──
いまも空間は
見えない震えを
静かに、抱いている
物は言葉を孕み
言葉は物を夢見ている
やがてそれらが再び交差するとき、
そこに
“わたし”と呼ばれる空間が
そっと、発火する。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0