10月 11 2025
「量子力学と引き寄せ」はすれ違っている
最近よく目にする話に、「量子力学も証明してる、意識が現実を作ってるんだよ」というものがある。
この主張は、“引き寄せの法則”や自己啓発の文脈で使われることが多い。けれど、ヌーソロジーから見ると、この理解はちょっと危ない。
というのも、それは量子力学が突きつけた“観測の謎”を、逆方向に解釈してしまっているからだ。
たしかに、量子力学では「観測によって状態が確定する」と言われる。だから「意識で世界が決まる!」と言いたくなるのもわかる。
でもここで言う“観測”とは、私たちが普段「私が見る」や「私が意図する」と思っているその“私”を、根本的に問い直さなければならない場所なんだ。
量子力学が本当に教えているのは、「世界が意識によって変わる」ことではなく、“意識そのものも、世界と共に生成されている”という、もっと深い構造だ。
そこをすっ飛ばして、「意識で現実を変えよう!」とやると、一見ポジティブだけど、実は“時空の中で孤立した自己”を強化してしまうだけになる。
そして、この“孤立した自己”が何かを引き寄せるとき、それは自分の“欲”や“欠乏”を土台にして動いてしまう。
この状態では、確かに何かは引き寄せるかもしれない。
けれど、それは本当に“良いもの”とは限らない。むしろ、無意識下に抑圧していたものや、見たくなかった側面=影=異物が具現化されることもある。
ヌーソロジーは、この状況に警鐘を鳴らしている。それは、「意識は現実を変えられる」と信じる前に、「そもそも、私はどこからこの現実を“見ていた”のか?」という問いを立てる。つまり、“観測者としての自分”を立て直すところから始めるのだ。
引き寄せの法則が言うのは、「あなたは現実を創れる!」というメッセージ。
ヌーソロジーが言うのは、「あなたが“現実を創っていると信じていた自分”は、どこから生まれていたのかを見つめてごらん」という問い。
これを間違えると、「量子力学を根拠に、現実を操作できる!」という幻想が、思いがけず、無意識の重たいものを“引き寄せてしまう”事態にもなりかねない。
おせっかいかもしれないけれど、いま必要なのは、「意識が世界を創る」という言葉よりも、「そもそも、その意識とは何なのか?」という問いのほうなんじゃないかと思う。
10月 12 2025
科学の前提 — 「あるもの」の絶対視
科学的認識とは、基本的に
光が物体から発せられる
or
反射する → 目に届く → 脳が処理して像を作る
——という“他者視点で構成されたモデル”のうえに成立している。
つまり、最初から最後まで、「あるもの(=物体、光子、神経、脳)」の系列で世界を語っている。
このモデルの最大の欠点は、「見る」という現象の“現前性”そのものを語れないことにある。
よく考えてみよう。
私が「見ている」という感覚、
世界が「開いている」という出来事、
色や奥行きや質感といった“意味としての感覚世界”、
これらはすべて、「いる」ものの世界に属している。にも関わらず、科学はそれを「ある」ものから推定しようとしている。
これはまるで、影を使って光の源を論じるようなもので、
いくら精緻な数式や計測機器を積み上げても、「現象の出現」という原点には辿り着けない。
なのに、なぜ科学はその限界に気づかないのか? ここが大事なところ。
まず、“客観的”という前提が、すでに他者視点化された世界であることに気づいていない。
「見ること自体」がすでに他者の目で見ているようなモデルで語られている。
つまり、“見るという出来事”そのものを対象化しようとするから、“見る以前”にある“立ち上がり”に触れることができない。
結論としてこう言える。
科学は「光の物理」を説明できても、光に出会っている“私”を説明することができない。
見ることは、光を受け取っているのではなく、光が“私”を立ち上げている出来事なのだ。
それは、「あるもの」の連鎖の果てには決して現れない、「いること」の始源的事件である。
新しい時代の思考は、そこから開始されるべきだ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0