目の前の空間には二つの異なる空間が重なり合っている

以前、ヌーソロジーの観点から、自然本来の空間と人間の文明を作り出した空間は全く別の空間ですよ、という話をした。
前者は外延意識が先行した知性が活動する空間。後者は内包意識が先行した知性が先行する空間。目の前の空間にはその二つの空間が重なっていますよ、と。受動知性と能動知性の関係だ、
もちろん、今の僕らの常識はそういう目で空間を見ていない。どちらも同じ空間の中で生成されているものだと考えている。
しかし、ヌーソロジーの時空観からすれば、両者は全く逆の方向を向いた空間で、決して溶け合うことはない。
そこから改めないと、意識、生命、についてはおそらく何も分からない。
芸術家の中にはこうした空間の真実を直感し、ストレートに表現する作家もいる。

存在者の時空で発展しているのが今の人間の歴史。
存在論的時空で発展しているのが、自然界の歴史。
両者は全く違う時空の中で活動している。
それを表現しているのが、この絵画だよ。
ここは、きっちりと文章で記しておこう。

⚫︎デビット・アンバルジュムジャンの作品に触れて
都市の風景の中に突如として現れる森や動物たちは、まるで異次元から流れ込む精霊たちのように見えないか?
都市と野生の重なり——。
私たちは何気に、公園や動物園、近くの山でこうした風景を経験するわけだが、ここには、人工と自然の時空が交わる地点としてのレイヤーが生まれている。
このレイヤーは、私たちが認識する外的な物理空間と、内的な存在論的空間が接続する場とも捉えることができ、ハイデガーが述べた「開け」としての「世界」を想起させる。
存在者の時空が日常の都市空間を形成する一方で、存在論的時空はそれを超越した自然の真理として見えない境界から流れ込み、そこに異質なリアリティを現出させているのだ。
アンフラマンスに隔たれた、このレイヤーに気づくこと。
自己と他者の空間の交錯もまた、このような形において現実化しているのである。