リール・フィルム・スクリーン・光

奥行きの開示は忘却された絶対的記憶を蘇らせるための序曲だ。それは自己が他者の元へと渡る回廊の入口であり、双方を隔てていた永遠の距離を埋めるための最初の一歩でもある。その奥裡には無窮の二重のスパイラル運動が展開しており、その軸心にはアイオーンと呼ばれる宇宙の自己運動が展開している。

誰もがふと持ったことのある直観——ひょっとして高次の自己とは「あなた」のことではないのか。であるならば「わたし」とは何者なのだろう。「わたし」は世界から減算されるべき存在ではないのか。「わたし」は、あの詩人がいつも言ってたように、むしろ「あなたのあなた」であるべきではないのか。。

世界があなたと「あなたのあなた」の世界になったとき、それは楽園と呼ばれることになるだろう。そのためには「潜在的なもの」を呼び起こさなければならない。そのルートを通じて初めて「わたし」は「あなた」へと交換される。存在はこの「わたし」と「あなた」の交換を潜在的なものの内で行っている。

わたしをわたしにつなぎ止めているのは太陽である。「22」の襞と「13」の音階の中で太陽は常に同じものを反復させている。この同一化の病は「男」と呼ぶにふさわしい。「わたしはわたしである」と誇らしげに叫ぶのはいつも男の方なのだ。

女は「13」を「1」には回収しない。言葉の同一性にも数の同一性にも女は納得しない。「女」は肉体的に欠損している部分を、裏では精神的な余剰へと変換している。この余剰の変換が月の役割である。女はその意味で「14」を持っている。「14」とは「1〜13」の反復を超えたところの外部である。

それは同一性に対して双数性として機能する。つまり女は本来、一人で双子、両性具有者なのだ。地球と太陽が取り結ぶ「12」の関係に対して(13は1に回収されている)、月は14の双子性を表現するために「28」を示す。この「28」がわたしとあなたとを結ぶ二重のスパイラルの土台となっている。

生命が女によって連続化しているということ。これは女こそが潜在化した連続的な多様体の象徴であるからにほかならない。わたしたちは太陽のもとに長い間、眠らされていた女=月を目覚めさせるときに来ているのだ。おそらく男にはこの話は分からないだろう。

フィルムのリールがカラカラと回り、シーンの連続性が運動を作り出す。横に流れて行くフィルム、それを運動として露にするための光。そして、映される場としてのスクリーン。時間と現在と持続の関係を、このフィルムとスクリーンと光の関係としてイメージしてみよう(下図参照)。

重要なことは光は時間に直交して初めて持続の力を持つということ。光が時間と同じ方向に向いてしまえば、光は死ぬ。死んだ光はスピンゼロ。奥行きに時間を見ているわたしたちは死せる光、要は闇を彷徨う光と言える。

秒速30万Kmという光は時間に沿った光。時間の中から光を救出すること。それがグノーシス者の仕事である。そこに現れてくるのは双子の光。スピン±1としての光。幼き神の双生児。向かい合う「あなた」と「あなたのあなた」。

そこにはもはやかつての「わたし」は存在しない。「わたし」とは時間の中に眠っていた光のことをいうのだから。これによって世界から「わたし」を差し引く減算が可能になる。女の世界が目を覚まし、太陽の背後にある隠れた太陽としてのシリウスが世界を照らし始めるだろう。

993603_367917346664325_2013939231_n