存在の光(ひかり)から生成の光(みつ)へ

肉眼は物質空間にあると言っていいと思うけど、見ることが起きているのは物質空間じゃないよ。この感覚を早く取り戻さないとね。
 
見ることというのは、そのままで空間の反転を意味していると考えないといけないよ。つまり、見ることが起こっているのは時空の中ではなく、エーテル空間なんだ。物理学では光速度になると時間が止まるとか、空間が縮むとか言うけど、実は見ること自体がそのことの意味なんだよ。そして、そこに君の精神が息づいている。つまり、世界を見ているのは魂であって、目ではないということ。その感覚をこれからゆっくりと育てて行かないといけないね。
 
目が世界を見ているという思い込みは、自己が他者の光を浴び過ぎているからなんだ。要は、他者の光によって自己の光が去勢されているの。去勢の結果、そこには影が生まれちゃう。影と影が出会うと、漆黒の闇が生まれ、やがてそこに悪が住み着いちゃう。
 
そこで、ルーリアカバラはこう語るんだ。〈アインソフ=世界の始源〉は決して純粋な光なんかではなかった。そこには悪が混じっていたって。神は宇宙の創造に当たって、この原初の空間から撤退した。その撤退は〈ツィムツーム=収縮〉と呼ばれている。
 
幅の空間に満たされた光というのは、実は他者の光なんだ。幅の空間を満たしている光は、主体と客体の分離を許容している光であって、そこでは、光は神とわたしの不連続性を補完するものとして働いている。これが言葉のことだと思うよ。
 
『創世記』の「光あれ!!」や『ヨハネの福音書』の「初めに言葉ありき、言葉の命は光であった」というフレーズからも分かるように、本来、ユダヤ的な光というのは、この幅の空間に満ちている光、言葉を宿した光として君臨していた。
 
でも、ルーリアはこのユダヤの顕教的な光に対してグノーシス的な謀反を起こした。他者の光=幅の空間の光に対する自己の光=奥行きの光のレジスタンス。これがツィムツームの本質と考えるといいと思うよ。
 
奥行きの空間を満たしている光においては、光と空間は分離していない。そのまま奥行きが光の一部と化して、生成の精神として活動している。この光は世界を照らし出す光ではなくて、世界に潜り込む光、世界内部空間の光になっているんだよね。
 
世界を照らし出す光は自らの空虚さを隠蔽するかのようにギラギラと輝くのだけど、世界内部空間の光は、ちょうど日本人におなじみの提灯や行灯のように、薄膜の中で控えめに揺らめいている。それは光(ひかり=日借り)というよりも、光(みつ=蜜)のようなものなんだよね。
 
生成の甘い蜜。
そして、「もの」に秘められた秘密の光(みつ)。。

秘密の光(みつ)