モーツァルトVSサリエリ

本当の「見てる」というのは、中から見ている意味であって、それは目で見ているわけではないの―もののケのしおりちゃん語録「眼力の悪用についてしかめっ面をしながら語ってみる。」より
 
しおりちゃん絶好調だよね。哲学の歴史が現代思想に至ってようやくたどり着いた人間の無意識の構造について、「壊れた十字架」と「完全でも不完全でもない十字架」とのメタファーで見事に説明している。現実界が消え去って、象徴界と想像界の中でパパ-ママ-ボクの三角形が生まれてしまったというストーリー。
 
本当はカムナがアマナを包んでいたのだけど、カムナが落ちてきて、アマナの中に入り込んでしまう。それによってアマナも死んでしまう―
 
カムナとアマナというのはカタカムナの言葉だけど、本を読んだのかな? アウノスベシレの中にトキトコロは生まれてきたのだけど、トキトコロが生まれたと同時に、アウノスベシレはトキトコロの中に落っこちてしまう。それによってトキトコロは死んだアマナとしての時間・空間になってしまう。そんなことを話してる。
 
カタカムナ的にいうと、これによってアウノスベシレは忘却されてしまうんだね。しおりちゃんの言い方をすると、人間は地球から追い出されてしまったってこと。
 
物質の起源というのは本当は時間と空間の外部にあるものなんだけど、人間は体を持ったことによってそれを時間と空間の中で見るようになってしまったんだね。外部(時空)の外部(霊的世界)は実は時空の内部に見えている物質になっているんだ。この仕組みを理解するためには、まずは自分自身が時空の外部(無限遠点)に出なくちゃダメ。そして、そこから一気に物質の中に滑り込む。この滑り込みを行っているのがカムナ(ビデオでは黒色で描いている)だね。
 
本当の「見てる」というのは、中から見ている―ベルクソンが言ってることでもあるけど、持続が収縮して対象の中に入っているということ。それが奥行きのことだよ。
 
10分にも満たない話なのにホントすごい情報の凝縮度なんだよね。行雲流水さんがしおりちゃんをモーツァルトに喩えていたけど、その喩えでいくと、ヌーソロジーってサリエリじゃん!!ってな感じ。ちょー、カッコ悪りぃ。まぁ、才能の差は歴然だけど、通訳はできるんでご容赦を(笑)