ヌーソロジーと精神分析―その3

ラカンのシェーマLからも直感できるように、自己と他者は最初から実像と鏡像のねじれ合いの中で互いの関係を作り上げている。主体が鏡像的な捻じれの中に自分を見出したとき、世界が同時に現れてくるわけだが、その現れた世界もまた鏡像化した世界なのであり、主体本来の世界ではない。
 
ヌーソロジーはこのラカン理論の不文律をダイレクトに空間認識に置き換えて展開していると考えていい。主体は「前(知覚正面)」、その鏡像は「後ろ(知覚背面)」。「前」が自分を「後ろ側」に見出したとき、世界は「後ろ」に支配された空間の中に現れる。そこに肉体的自我と物質世界が出現する。
 
ラカン理論では鏡像化の効果を免れた対象のことを「対象a」と呼ぶが、それは物自体としての主体のことだ。これは世界が鏡像で満たされる以前に存在していた実像たちの世界と言ってもいい。ラカン理論によれは、人間の欲望はすべてこの対象aを奪回しようとしてあがいているという。
 
裏を返せば、晴れてこの対象aが見出された暁には、人間が持ったキリのない欲望の反復は終止符を打つ、ということになるのだが、人間が言葉とイメージで世界を意識する存在である限り、これは「永遠に喪われている対象」であり続ける。
 
「幅化した奥行きを消せ! そして、そこから世界を再構成し直せ!」というヌーソロジーの思考の身振りは、この対象aを捉えるための正攻法の構えでもあると思っている。
 
対象aを自覚できない人間のあらゆる意識的欲求は、科学的欲求であれ、宗教的欲求であれ、物質と精神という二つの想像的なものをめぐる欲求ということになるだろう。これらは、どちらも人間の認識を迷わせる二種類の対象なのであり、幻想である。対象aの「現実」においては物質と精神は同一のものなのだ。
 
この「現実」が再構築されなくてはいけない。
 
※下イラストはhttp://lacanmistico.blogspot.com/よりお借りしました。

現実の再構築