「ある」「いる」「なる」、再び

「いる」感覚と「ある」感覚をまずは区別すること。これが大事だね。「いるもの」の世界と「あるもの」の世界はまったく違う。茫洋とした感覚でしかつかめないこの違いを、空間的にハッキリと区別するために設けた概念が人間の外面と内面という概念。外面は「いる」。内面は「ある」。
人間の思考は多かれ少なかれ、この「あること」と「いること」の間で戦っている。例えば、科学ですべてを説明することに抵抗を感じる人は、「あるもの」だけの世界で「いるもの」の説明なんてできっこないと本能的に感じ取っているわけだ。
物質から意識を持つ生命が生まれたと考える科学は、その意味では「あるもの」から「いるもの」が生まれてきたと決め付けている。科学的思考は「あるもの」をベースする思考だから、そうならざるを得ない。
でも、じゃあ「あるもの」はどうやって生まれてきたの?と科学に聞いても、モゴモゴと口ごもるだけで、問題は「あるもの」をあらしめたものは何かという問題となり、結局、そこに自発的対称性の破れとかなんだとか言って、訳のわからない科学者の神が顔を出す。
「いやいや、その神はマズいっしょ」というのがヌースの言い分。実は神は「いるもの」の下に隠れていて、「いるもの」が「あるもの」の知覚から逃れたときに、その「なるもの」が姿を現し、この「なるもの」がやがて「あらしめるもの」となって「あるもの」を生み出す。それが正しい存在のあり方だと。
それが「いるもの」に見えてくることによって、「あるもの」の「いるもの」に対する専制は終止符を打ち、「ある」「いる」「なる」のヌース的円融三諦の世界が訪れる。そういうストーリー。