6月 3 2006
独自の生殖領域
不連続差異論とのセッションが続いています。興味がある方は是非、ご覧下さい。
不連続的差異論の冒険——http://ameblo.jp/renshi/entry-10013120351.html
以下は、今日書いたレスです。
>同一性(父権制)が、差異(母権制)を支配する領域が、「独自の生殖領域」だろう。共振差異を否定する暴力的同一性の生殖である。火星(マルス、軍神)ないし白羊宮的と言えるのではないだろうか。
renshi氏のおっしゃる通りだと思います。「独自の生殖領域」というのは、象徴界と想像界の間で性倒錯が起こる場所という意味で書きました。神話的に言えばオゴ(ドゴン神話)や蛭子(古事記)が生まれてくる領域に当たります。オイディプスの父殺しの現場ですね。子が愚かにも母と交わってしまう。父と子のユダヤ的契約が行き過ぎて、父殺しが起こり、何を勘違いしたのか、子が王の座へと着いてしまうわけです。ここで、無意識の欲望回路の逆転が起こります。宇宙的エロスであった享楽の力がウォルプタスへと反転し、いわゆる快感原則の回路がセットされてくることになります。その変わりに、享楽(死への欲望)への回路は完全にシャットアウトされ、死者隠しの近代、宗教嫌いの近代、オカルティズム侮蔑の近代が出現してくる。
その意味で、この倒錯した生殖機械は反転した闇の現実界である、とも言えるでしょう。こうした仄暗い生殖が起こる領域のことをカバラはクリフォト(殻)と呼んでいます。これは、近代自我が居座っているニセの容器とも言えます。おっしゃる通り、この容器の本質はディーン(火星)の闇の中にあります。シュタイナーが「ソラト」と呼んだものではないかと思います。
ただ、クリフォトが唾棄すべき無用な存在かというと、そうではありません。ここでは、哀れながらも繊細で美しい有機体の生命活動が営まれているはずです。ドゥルーズが「バロック(襞)」として表現したものも、こうしたクリフォトにおける生殖の営みの連鎖性・連続性についての事柄だと思います。神ではなく、コギトとして光と影を操り、それら両者のコントラストを交互に織り混ぜながら、個体に託されたエロスの活動を行って行く。それがバロック的運動というものでしょう。
さて、オイディプスによるこの父殺しの構図をヌース理論的にトポロジーとして見ると、三次元球面(人間における主体統合)の時空的一点への同一化として解釈することができます。ペンローズのいうツイスターファイブレーションです(実際、ツイスターファイブレーションは資本主義機械が生まれてくるとしたC^4上で起こります)。これは内在であったものが超越側へと接続するときの位置の幾何学的表現と言っていいと思います。カント風に言うならば、主観形式と客観形式の結節点です。ここで、点概念に強大な霊力が宿ることになります。
この点概念の突然変異により、数学的に構築された理念性の世界が延長空間に張り巡らされて行くことになります。ドゥーズのいう公理系。つまり、デカルトやガリレオ的思考による近代科学思考の勃興ですね。科学は変質した点を「物体の質点」として語り、それがなぞる幾何学的法則性によって僕らの世界が営まれているかのような言説を生み出してきます。しかし、ご存知のように、そこではフッサールのいうところの「数学的に構築された理念性の世界と、現実に知覚的に経験された世界(日常的世界)とのすり替え」が起こっています。要は、科学が扱う世界はモノを扱っているようで、モノなどどこにも存在していないわけですね。モノが存在しないということは、光との連結を失っているということです。光とは、存在の出力と入力の橋渡し役そのものですから、コギトの科学王国はこうした存在の生成回路とは不連続の領土を形成しているわけです(ヌースでは不連続質と呼びます)。バロックの字義通り、生活空間と、この不連続の領土の間に「歪んだ真珠」、つまり、光と闇との間の拮抗で歪曲させられた人間の魂、のリトルネロが流れていくことになります。
こうしたバロック的な反復運動の中でコギトの自己同一性をかたくなに保証していくものが、紙幣の行使、つまり、経済活動(資本主義機械)なのでしょう。真の現実界ではモノを通して主体の交換が行われていくのですが、闇の現実界の空間では主体を通してモノの交換が行われるようになってしまう。宇宙エネルギーの交換関係が丸ごと反転してしまっているわけです。聖霊の力がウォルプタス(人間的な悦楽・喜び)へと変質し、貨幣(紙幣)となって巡回し、悪夢のように周り続ける。誰でも紙幣をつかんだときにこみ上げてくる、あの得体の知れない薄気味悪い笑みを思い浮かべて見れば分かるでしょう。そこで笑わせているのがウォルプタスそのものです(わたしも例外ではありません)。
紙幣は神(国家)の名において脱コード化の能力を与えられます。売買という行為を通して相対的差異を持ったものすべてがこの貨幣を媒介として同一性の空間に叩き込まれて行く。芸術、セックス、愛はいうまでもなく、哲学や宗教までもが。。何と言うコギトのどん欲さ。貨幣とは、こうした反転した主体による反転した現実界で暗躍する反転した聖霊群とも言えますね。銀行や証券会社はこれらの聖霊力を狩り集め、都市の中心部に物神崇拝の教会・寺院として君臨している。世界は中世とさほど変わっていない。。。質こそ変われ、まだまだ暗黒時代なのでしょうね。




7月 5 2006
元素界への突入
ヌース理論では素粒子世界は潜在化したイデアと考える。潜在化したイデアは人間の無意識構造を形作っており、この無意識構造があるから、僕らは意識を働かせることができる。人間の意識進化とは、この潜在化していたイデアが、顕在化を行うことである。だから、それは人間の意識に素粒子が見えるようになることを意味する。このへんは何度も言っている通りだ。しかし、素粒子が見えるようになったときは、それは素粒子ではないとも言える。潜在化したイデアが素粒子なのだから、当然、顕在化したイデアは素粒子には対応していないということだ。では、それは何か——。
原子である。たとえば、ψ6という観察子は潜在化においては、ニュートリノ、もしくは局所時空に対応するが、「あっ、ニュートリノとは局所時空と呼んでいたものだったんだ。へぇ〜。」と言うように、ψ6の概念がそう納得して見えてきたとき、そのψ6はもはやニュートリノではなく、原子番号6番の炭素となっている、ということだ。顕在化したイデアを持った意識にとっては、局所時空=炭素というとんでもないロジックが当たり前のように成り立つ。何で………?と訝しがる声が轟々と響いてくるのが聞こえるが、ここはチビチビ行こう。ここは、こういう考え方をしてみてほしい。
客観的モノが成立する条件をヌースではトポロジカルに考える。主観としてしか把握できないモノが、どうして客観にまで育ち上がるのか。いや、そもそも主観は,客観(世界)の部分的な切り取りという意味において、世界からしか派生し得ない。しかし、最初にあるこの客観とされる世界は、客観というよりはむしろモノ自体としか呼びようのない世界である。何と気味の悪い話か——これはカント以来、哲学が抱いてきた最重要課題の一つと言っていいものだ。
当然、この主観-客観のグルグルルートは無意識構造が人間に強いている業(カルマ)の一つなのだが、ヌースは、そこで、このカルマの構造に、群論でいうところのSU(2)対称性のカタチが暗躍しているということを主張している。つまり、僕らの意識に客観的なモノという認識が現れてくるためには、複素2次元空間における回転対称性がないと無理だ、と言っているわけだ。はじめにSU(2)ありき。SU(2)は光とともにありき。SU(2)は光の命であった。ということにでもなろうか。。だから、3次元空間でただモノが廻っていても、それは客観ではなく主観的なモノの回転にすぎない。事実、ここで起こっているモノ自体と知覚の分裂に、やれモノが先だの、いや、観念が先だのと言って、哲学者たちが長年の間、論争を続けているのである。
SU(2)が3次元球面と同型であることから考えて、SU(2)対称性とは4次元空間上の3次元球面の回転対称性に相当するだろう。1次元球面(円環)が3次元方向に回転して2次元球面ができるように、3次元球面は2次元球面が4次元方向に回転して生まれるものと想像て゜きる。4次元の回転とは、意識の他者の視線への移動ではないか、という話はもう何回もしてきた。ここから見たリンゴ、あいつから見たリンゴ、彼女からみたリンゴ………こうした主観的イマージュが折り重なって「客観的なリンゴが存在する」という確信が成り立っているのは心理的にもごく自然に納得がいくところだ。
素粒子でいうとSU(2)対称性はアイソスピン対称性が成立している空間である。アイソスピンというのは電子のスピンがもう一回り大きくなったようなスピンで、三つの直交するスピンでアイソスピン対称性を構成している(二つの直交が弱アイソスピン対称性)。アイソスピンにも同じようにプラス1/2とマイナス1/2というのがあって、これらはそれぞれ陽子と中性子のスピンに対応させられており、アイソスピン対称性はそれらの区別がつかない核子の状態を意味する。ヌースは陽子を客観的モノのイデア、中性子を客観的時空のイデアにそれぞれ対応させているので、正確に言えば、これらは弱アイソスピン対称性と言った方が適切かもしれない。(以前話した人類総体の「前」と「後ろ」の関係を思い出してほしい)。
さて、客観的モノ、客観的モノと執拗に連呼してきたが、このモノは必ずも実際のモノである必要はない。客観的事物として見なされるもの、例えば、目の前の空間を指差して、ここを点Aとしよう、と言ったときの点Aでも構わない。つまり、モノを無限に縮めていったものでも、それは無限に縮まったモノであるから、モノに変わりはない。要は、モノの存在を概念として考えてみようと言ってるわけだ。するとモノ概念が存在するためにそこには最低、以下の三つの要素が必要となってくることが分かる。
1………客観的な位置概念(点)
2………客観的な空間概念(時空)
3………それを見ている主体概念(知覚球面)
実を言うと、この三位一体概念が僕らが重水素と呼んでいるものである(水素原子には内面(客観的な時空概念)がない)。つまり、客観的な時空の中に客観的な点を措定し、それが主観的なものへとズレて認識されているという状況。これが第一の原子の実体なのだ。これは、知覚球面を反環と見た場合の円心と反環の関係に当たる。円心が陽子と中性子、反環が電子である。その意味で言えば、原子に見られる核子と電子の円心関係は、円心と反環を対化に持つ次元と言えるだろう(これが「ヒト」だ)。僕らが見ている重水素原子とは、おそらく、それら三位一体のイデアの構図が、4次元のルートを通って射影され、縮んで見えているだけなのである。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 3 • Tags: イマージュ, カント, ニュートリノ, 円心, 素粒子