11月 28 2016
境界を解体していくこと
体の内部と外部の相互反転関係は誰もがそれなりに直観しているのではないかと思う。体の外部から見た体を表身体、体の内部から見た体を裏身体と呼ぶとするなら、前回のマグリットの『複製禁止』のような視線で自分の体を見るなら、それは表身体しか現前させることはない。このことは真の奥行きにこそ裏身体が活動している場あることを意味する。
表身体は物質的生活を営んでいるが、裏身体は精神的生活を営んでいる。表身体にx-y-z軸があるように、裏身体にも前後、左右、上下軸というものがある。表身体の世界はついついこの二つの三軸関係を同じものとして見てしまう。ここが致命的なのだ。外から自分の体を見つめる目こそが複製の意味だということを何も分かっていない。
先日、「肉体が魂の牢獄なのではなく、魂こそが肉体の牢獄である」と言ったが、それは人間が裏身体が息づく空間に対してあまりに無頓着だからだ。裏身体とは魂の異名と言っていい。それは不動の身体とも、無意識的身体と言ってもいいだろう。その身体があるからこそ表身体は活動することができる。この表と裏をつないでいるものが高次元空間である。この仕掛けを見抜けない限り複製は生産され続ける。人間は自分の魂に支配され続ける。結果、同じものが何度も巡ってくる。それこそ、ニーチェが見たあの悪夢のように。
さて、下に示した図1は以前も紹介した自己と他者を横から見た情景だ。もう、この時点でしてはいけない複製が起きていることが分かる。このとき裏身体はどこにいるのかというと、自他の関係をこのように見ているこの視線そのものの位置にいる。このような配置で自分と他人の関係を見てしまうと、自他空間の反転性は見えなくなり、人間は単なる物のようにして置き換えが可能になってしまう。「オマエの代わりなんていくらでもいるぞ」と今日も上司の罵声が飛ぶ(笑)。
さて、話はこれだけでは収まらない。自己は二人の他者を実際にこの配置で見ることができている。二人の他者にとっては互いの間には空間の捻れが存在しているにもかかわらず、その二人を見ている第三者としての私の視線はその捻れを全く無効にしているのが分かる。政治家の目、経営者の目、裁判官の目etc。こうした視線を持ったものの名はいくらでも挙げられる。
また、今度はそうした三者の関係を真上から見下ろす視線も裏身体は持っている。この視線は大地を離れ上空からの俯瞰の視線になっている。そこにまた別の権力が構成されていく。これらすべてが裏身体の為せる業だと考えなくてはならない。君はこうした視線たちに無意識に操られてはいないか。空間を幅ではなく奥行きで見るとは、こういう視線たちの欲望や生態を事細かに観察していくということを意味している。
参考までに、視覚における前と後ろの分離を複素平面で示すと下図2のようになる。前が青、後ろが赤だと思うといい。この平面の回転によって、単位円の内部は青、外部は赤で塗りつぶされるが、これは前と後ろが全く違った領域であることを意味している。つまり、この回転は自分の身体の自転を意味しているということ。前が内包空間になり、後ろが外延空間になる。今の僕らにはこの内包感覚がうまく認識に上がっていない。
ちなみに色が塗られていない側は他者側のそれだ。自己側とは数学的に複素共役関係になっているのが分かるだろう。これが量子力学にはエルミート性として表現されてくる。青と赤が反転関係にあるのはすぐに分かると思うが、色付きと色無しの部分もさらに上位の相互反転性を持っている。これらの反転関係を等化するのがSU(2)(複素2次元回転)だ。その結果、奥行きは前後からさっきの図のような左右方向へと進化する。このように裏身体は複素空間で構成されている。
前回のマグリットの絵から今までに至る書き込みはすべて関連性を持っている。アート、空間認識、精神分析、素粒子。すべてを関連付けて語っていけるのがヌーソロジーのエンターテインメント性。境界破壊の思考感覚は最高に面白い。
4月 3 2017
見つめているものと見つめられているものの一致とは何を意味するのか
ヌーソロジーでは、電子とは「人間の意識の定質」という訳の分からない表現をいつもしているわけですが、これは別の言い方をすると「人間の意識に表相を与えている力」という意味です。「表相」という言葉もヌース用語ですが、これは「一つの対象の見え」のことですね。視覚表象のことです。
僕らは普通、世界をイメージするときに必ずこの表相を使っています。原子であれ、分子であれ、DNAであれ、細胞であれ、鉱物であれ、植物、動物であれ、人間であれ、また、地球、月、太陽、太陽系、銀河系、銀河団等であれ、ミクロからマクロにわたる物質的構成物の視像はすべて、この表相という次元の中に与えられたものです。
ここに、意識における最もミクロな次元があります。
「意識とは何か」と、この「表相」という言葉を使って表現するなら、それはありとあらゆる表相をつなぎ合わせて総合化し、そこに観念の連合を作っていくものという言い方になるでしょう。そして、この連合のためになくてはならない不可欠な基礎がいつも言っている純粋持続の働きなんですね。
純粋持続が作り上げていく観念の連合化の運動にはある一つの秩序が存在しています。この秩序化を行っていくものがヌーソロジーが「精神」と呼ぶものです。精神と言っても、それは宗教にいう「神」などといった漠然とした観念ではありません。ヌーソロジーでは、それは対化を等化する働き、対称性を拡大していく働き、として明確に定義されます。
この「等化」は時間と空間の世界においては「回転」として表現されていますが、回転と言っても単に3次元空間内部の回転だけではなく、持続空間を複素空間と重ね合わせることによって、この回転は複素空間次元の回転にまで拡張されていきます。
こちらの書き込みでも、よくU(1)とか、SU(2)とか、SU(3)とかいった記号を見かけると思いますが、この記号群がその複素空間次元での回転を意味しています。()内の序数は複素空間の次元数です。
物理学の標準理論では、現在、物質粒子のクォークとレプトンを統一する大統一理論というのが、これらを掛け合わせたSU(5)=複素5次元の回転対称性の中で記述されています。
物質粒子が持ったスピンとは、ヌーソロジーの解釈ではすべて「見ること」と関係を持っています。見ること-見られること-見られることを見ること・・・。見ることと一口に言っても、意識の中では、この見ることが、他者の見ることとの関係の中で複雑に入り混じっています。
よく、「見るものと見られるものの一致」といったような表現を神秘学や哲学の中で見かけますが、先程言った「表相」という概念を考慮してこの言葉の意味を考えていくと、見るものと見られるものの一致を見るまでには相当な次元的距離があります。
見るものと見られるものの一致に限って言えば、こうした感覚は物をじっと見つめているだけで誰にでも湧き上がってくるものですが、そこで「わたしは世界だ!!」と叫んでみたところで、そこから何が始まるわけでもありません。
まだ誰もこんなことは言っていませんが、実は素粒子が持った対称性構造というのは、実はこの「見るものと見られるものが一致する世界の中の精密な地図」になっているのです。言ってみれば、表相に始まり表相に終わる、わたしたちの精神の現実とでも言えばいいのでしょうか。それが組織化されている世界です。
見られているものとは裏を返せば、見せているもののことでもあるのですから、見るものと見られているものとが一致を見るためには、見るものが見せているものまでに到達しなければ、この一致を達成することはできません。
この一致が物理学がクォークとレプトンの統合と呼んでいるものの本質的意味だろう、とヌーソロジーでは考えています。さっき言ったSU(5)のことですね。
そして、その統合体の中に、人間が自我と呼んでいるものの起源があります。ヌーソロジーが素粒子構造とは人間の無意識構造と呼んでいるのもそういう理由からです。
表相に始まり表相に終わる表象化のシステム。見つめているものから、見つめられているものを見つめさせるまでに至る、持続空間の織りなす組紐。そのカタチはまだ持続空間の中に沈んだままですが、おそらく、もうまもなく、多くの人たちがその全貌を旋回する知性の力によって一つの連続体として体験していくことが可能になってくるのではないかと思っています。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: SU(2), ヌース用語