9月 26 2024
ウシロ、ウシ、物質
「後ろ」と聞くと、カタカムナの「トキトコロウシ」を思い出す。時間と空間とは「ウまれてくるウシロ(客観的背後)の示しという思念である」(相似象学会誌第四号p.121)
「後ろ」の語源は「丑(うし)」+「ろ」。「丑」は種子の中に止まるという意味。この種子は、おそらく言葉のことでもある。よくできている。「後ろ」は土中のように暗闇だということ。そこに時空を見てるのがわれわれ人間。まぁ、人間は鏡像に生きる生き物だから致し方ないんだけど。
要は後ろに意識を持って行かれているから、前に物質が現れている。
面白いことに、量子力学でも粒子の生成演算子はa†だ。つまり、後ろ(x-ip)。これは、ヌース的には、意識が後ろに向くと、前に粒子が現れるという仕組みだ。前(x+ip)に向くなら、粒子は消滅する(消滅演算子はa)。
よくよく考えれば、これは当たり前。意識が「前」に向くなら、「前」は自分自身であり、そこでは、見るものと見られているものの区別はなくなる。
⚫「幅から奥行きへ」の本意
鏡の魔術に囚われの身となり、何もかもが凝結した幻影と化してしまった空虚な世界。それが私たちが対象として経験している物質の世界だと考えるといい。
なぜこのような世界に幽閉されてしまったのか、もうその原因は察しがつくのではないだろうか。単に「前」が私たちの意識から行方不明になっているからに他ならない。
「前」を再構築していくこと。それも丹念に。そのために量子力学という学問が世の中に現れた。
そう考えるのがヌーソロジーだよ。




8月 15 2025
カタカムナ人に畏敬の念を込めて
古代の叡智に触れると、ただただ深く頭を垂れざるを得ない瞬間が多々あるのだが、カタカムナ人たちの世界観もまたその一つと言っていい。
「アメ」に漂う無限の場から、球の霊「マリ」が生まれ、 それが「イマタチ」として瞬間の中に立ち上がる——
この言葉だけで、ヌーソロジーが長い時間をを経てようやく辿り着いた、持続と瞬間の二重構造や、自己と他者の反転などが、超古代の心の中にも透徹していたのだなと思わせる。
「ヒトツカタ」は、まるでヘキサチューブルのように世界を重ねていて、「タバネタチ」「マトマリタチ」は、観察子群の生成秩序とピタリと重なり合い、内的宇宙の多重な襞化の運動を前景化する。
まさにカタカムナは、現代物理学がスピン群やSU(2)で記述している内部対称性を、超古代の言葉として、そのまま謳い上げているかのようだ。
ヌーソロジーが解き明かそうとする宇宙像は、実のところ、カタカムナのウタヒの中で、すでに生き生きと歌われている。
ヒフミヨイムナヤコト、アウノスヘ、マワリテメクル── これは単なる50音の羅列ではなく、量子状態が時間と空間として立ち上がっていく瞬間の呼吸音であり、宇宙が自己自身を想起していく鼓動音でもあるのだ。
私たちの歴史は、現象世界の旅路を経て、ようやく超古代が見ていた別の歴史の入口に立ち始めたのだろう。
カタカムナ人たちの視線は、決して過去に置かれたものではなく、未来のわれわれに向けられた、時を超えたところからの呼びかけなのである。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: SU(2), カタカムナ, ヘキサチューブル