11月 8 2022
物質が先か(唯物論)、意識が先か(唯心論)という議論はもう古い
根本さんが紹介してくれていた、トランスヒューマニズム系の研究者方の意識に関する議論。
僕にはどうしても、こういう方々の議論は、問いの立て方が根底から間違っているように思えて仕方ない。
物質からどのようにして意識が生まれるのか。もしくは意識からどのようにして物質が生まれるのか。イデア的観点からするなら、これらはどちらも正しい問い立てのように思えない。物質と精神は同じものの二つの側面であり、その意味で、その発生も同時的なものと考えないといけないように思う。つまり・・・
素粒子とともに意識は生まれている——ということだ。
存在の転倒は秘教的伝統の基本だ。イデアとロゴスという相補的な関係がまるまる転倒したところに存在者の世界が生まれている。本来的世界はイデア→ロゴスという順に生成が進むのだが、人間の世界はロゴス→イデアというように両者の関係がひっくり返っている。
つまりは、言葉の世界が先行して、見ることが後追いになっているということだ。これもまたヌーソロジーがいつも言っている「他者-構造」がもたらしている効果と言っていい。
そして、このロゴスからイデアへと方向付けられたところに現存在としての人間の意識の場が生じている。素粒子とはこのイデアに方向付けられた場の別称である。
人間が持った言語で素粒子の世界を描像できないのも、こうしたロゴス的場とイデア的場の間に絶対的な差異が介在しているからだと考えるといい。
つまり、差異の思考が開始されない限り、意識とは何かは分からない。
2月 1 2023
夜明け前
空間には一次的な空間と二次的な空間がある。一次的な空間が奥行きで、二次的な空間が幅。というのも、奥行きナシでは幅なんて見えないから。人間の場合、なぜか幅が先手に来て、奥行きが後手に回ってしまっている。奥行きに幅をあてがって、奥行きが分からなくなってしまっているということ。
奥行きとは持続としての精神の場。つまり君自身。物質のすべては、この奥行きから作り出されているのだけど、幅が先手に回った意識にはこのことがまったく分からない。自分と物質なんて何の関係もないと思ってる。
だから、空間に3次元を見ている限り、人間は自分のことなど永遠に分からない。ほんとうの自分の亡骸を物質として見続けるだけ。自分に目覚めたいのなら奥行きに目覚めよう。そして、そこから世界を再構成していくこと。
「ずん!!」と一気に入ればいい、奥行きに。それによって初めて実像としての宇宙が君の前に現れてくる。姿も見えず声も聞こえないかもしれないけど、そこには過去のすべての死者たちが姿を変えて生きている世界がある。そうやって生者と死者を繋ぐイメージを作ること。秘儀参入の場なんだよ、奥行きは。
幅の空間世界から、この奥行きの空間の生態を事細かに調べているのが量子力学の世界だと思うといいよ。つまり量子力学というのは、奥行きの世界の詳細な地図になっているということ。そこでは奥行きと幅の関係が虚軸と実軸として表現されていて、奥行きに幅が従者のように付き従っている。
存在の外に疎外されていた人間が存在の内に入っていくという歩み入り。この風景が見えてくると、物理学者たちによる長年の営為の意味がはっきりと分かってくる。それは「存在の声に傾聴しながらそれを正しく守り言葉にもたらす」ことに努めてきたということ。ロゴスからプシュケーへの橋渡しだ。
あとはヌース(能動知性)の登場を待つのみ。世界は今、そのような状態にある。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ロゴス, 量子力学