2月 15 2006
貧乏人のもてなし
トンデモだ、やれ電波系だ、などと揶揄され続けてまもなく10年。ヌースももうじき脱皮の頃かな。ヌースが空間認識の数学化にこだわっている理由はただ一つ。それは、人間の認知構造や、自他における主観規定、さらには客観規定といった無意識構造の基盤が、素粒子空間と同一のトポロジーとして為されていると考えているからだ。もちろん、その精緻な数学化が今後進み続け、両者の構造が同定されたとしても、それらが同一の存在である、という言明はできない。実験方法は今のところ不明だが、とにかく何らかの検証が為される必要性はある。まぁ、それも君の夢想と言われてしまえばそれまでだが、個人的には見通しは極めて明るい。
これは言い訳だけど、僕は自分がトリックスターであっていいと思っている(というか、現在の自分の能力ではそれしかできない)ので、あえて未熟な運転技術にも関わらずアクセル全開で飛ばしている。認識の幾何学化と素粒子のトポロジーの接合作業が、ヌース理論のキモというわけではないのだが、物質=精神という一元論的世界観を世界に召還するためには、これは、どうしても乗り越えなければならない一つの重要な課題なのだ。
僕は、人間を取り巻いている多くの不幸の原因は、知覚世界と三次元世界の主従の転倒関係にあると思っている。知覚世界がまず先にあって、そのあと三次元世界が想像力のもとに生じてきているだけなのに、後手の想像の場である三次元世界の方を実在の場だと勘違いしてしまっている。ビックバン理論、進化論、科学的世界観が語る宇宙像、人間像は、ほとんどが後手優先のイデオロギー世界だ。こうなると、必然的に人間は「世界内存在」として時空の中に呑み込まれ、身体は単なる物質的肉体としてしか解釈されることはない。最近,脳科学がやたら活況を呈しているが、僕にしてみりゃ、あれは迷宮だ。やはり問題を複雑に考えすぎているとしか思えない。問いが悪ければ答えは出てきようがない。
その点、ヌース理論は単純だ。心の在処は肉体なんかの中にはない。それは、この現象知覚とともにある、と考える。ただそれだけ。こうしたことは現象学の立場から哲学者の大森荘蔵が執拗に連呼していたことだ。大森氏は知覚と三次元世界の分離のことを「面体分岐」と呼んでいるが、その「面」と「体」についての具体的な関係性の中に入っていくことはなかった。道具立てが足りなかったように思う。
世界内存在がどうして生まれてきたのか——ハイデガーもそれについては十分に述べていない。彼がここでドゥルーズのようにその起源を他者論に求めて行っていれば、存在論にあれほどこだわることはなかったろう。いやブーバーとだって接点を持てたかもしれない。
「他者はわたしの知覚野の中に現れる客体ではなく、わたしを知覚する別の主体でもないのだ。他者とは何よりもまず、それがなければわれわれの知覚野の総体が思うように機能しなくなる様な、知覚野の構造そのものなのである。」
(ドゥルーズ「原子と分身」)
ここにラカンが入ってくるとかなりヌースの構造論の輪郭に近づいて来る。ヌースがいつも引き合いに出す鏡像原理における反照性というやつだ。そもそも「わたし」という自我存在の規定となる肉体自体、他者の眼差しの中に対象化されているものなわけだから、主体が肉体にいるはずはない。ラカンがデカルトを皮肉って出したテーゼ「われ思わざるところに我あり」というやつがこれにあたる。ここで、じゃあなんで、脳が障害を起こすと「わたし」は機能停止になるのよ?という単純な反論が素朴実在論者サイドから出てくるわけだが、その問いに説得力を持って答えていくためには、ドゥルーズが「襞」と呼んだ高次元多様体の多重な実態構造を順を持ってある程度、解明して提示していく必要がある。
しかし、これを学問的なレベルで極めるにはかなり高度な数学的知識が必要だ。ヌースは無謀と知りつつも、これに挑戦していこうとしている。大変だ。ラカンも数学が得意じゃなかった。そして、性格が悪かったせいか(笑)、数学者たちもラカンの仕事に特別、興味を示さなかったようだ。1970年代にラカンの仕事が現代数学と結びついていれば、ものすごいことになっていたかもしれない。最近復活してきた超ヒモ理論だって無意識構造の理論と見る視座がとっくに生まれていたに違いない。
無意識構造をこうした空間のトポロジー構造の複合構造体として考えてみようという発想は実は日本にもあった。京都学派と呼ばれる西田幾多郎や田辺元たちの思考の足跡の中にそれは見つけることができる。ただ、彼らはあまりに早すぎた。実際、西田の説く「場所の論理」や「絶対矛盾的自己同一」の概念のアウトラインをあますとこなく数学として記述ためには、トポロジーは言うに及ばず、現代幾何学の最先端の概念が必要となるだろう。でも、それが現れてきているのだから、その意味では受胎の時期はいよいよ迫ってきているのだろう。
ネットで検索した範囲しか分からないが、まだ、人間の心と物質をつなぐ性的作業は専門的にはどこも行われていないようだ。砂子さんぐらいかな。産業に奉仕する実学も大事だが、それよりもっと重要なことは、今や崩壊の一途を辿っている大きな物語(価値)を復活させていくための新たな知の再編集作業である。僕は無知蒙昧な一介のドシロウトに過ぎないけれど、自分の心がそれを作れと叫んでいる。だから、トンデモと言われようが電波系といわれようが、やがてやってくる待ち人を迎えるため、たとえ粗末でもなけなしの金をはたいて、お祝いの晩餐のテーブルを用意するしかないのだ。——「ようこそ、本当の君。やっと会えたね」と言いたいじゃないか。
6月 25 2006
夜が起きている。。
最近、ワールドカップのTV中継を観ているせいか、どうも生活のリズムが無茶苦茶になっている。今日も午前3時に目が覚めてしまった。こんな時間に起きるのは久しぶりだ。本を書き進めているせいもあるのだろう、真夜中の目覚めというのはどうも僕を必要以上に哲学的にさせてしまうようだ。
寝静まり返った街。真夜中の静寂の中で、夜の深みが、存在することの厳粛さを無言の中に表現してくる。不思議なものだ。世界は沈黙することによって世界の赤裸々さを見せてくる。あらゆる意味がはぎ取られ、ただ世界があるという生々しい現実だけが、あたかも濃霧のようになって僕を包みこむ。言葉がかき消され、理性がマヒし、わたしという存在がかすんでいくのがわかる。夜が起きている……のだ。レヴィナスのいう「ある/イリヤ(il y a)」である。
不眠の目覚めの中で目醒めているのは夜自身である。レヴィナスはたしかそう言っていた。そこで無に宙吊りにされる〈わたし〉の思考。しかし、熟睡した後の真夜中の目覚めは不眠の目覚めのそれとは全く違う種類のもののようにも感じる。無の宙吊りという意味においてはなるほど一致している。そこでは言葉は縮退し、むき出しの「ある」のみが圧倒的な存在感で迫ってくることも確かだ。しかし、ここにはハイデガーの「不安」も、サルトルの「吐き気」も、そしてレヴィナスの「疲れ」や「倦怠」も見当たらない。不運なのか幸運なのかはわからないが、戦争という圧倒的な不条理を経験したことのない僕にとって、存在が作り出すこのホワイトアウトは、畏怖するものというよりも、信頼すべきもののようにも見えるのだ。というか、存在を信頼しないで存在の中に生きることなんてできない。もちろん、そうした楽観は、ヌース的思索のせいでもあるのだけど。。
存在とは神の寝姿である。存在は待機しているのだ。だから、僕にとっては、「ある/イリヤ(il y a)」は、ちょうど開場前の劇場のように見える。赤いビロードの絨毯。円弧状に並べられた椅子。非常出口のランプ。出し物は何かわからないが、やがてやってくる観客たちの声でこの劇場は埋め尽くされることだろう。他者の顔がレヴィナスの「顔」に変わるのはそのときだ。そうした顔は、私に呼びかけ、語りかけ、真の自由を呼び覚ましてくれるに違いない。他者とは神の別称なのだから。
By kohsen • 10_その他 • 0 • Tags: サルトル, ハイデガー, レヴィナス