7月 26 2022
存在を開こう
@jikucafe
返信先: @kohsenさん
核質で覆われた世界のなかでは、無核質は弱く、それを利用するという転倒したかたちで見られてしまうのでしょうか。アワとサヌキのように。
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半田広宣
@kohsen
はい。人間の経験的意識が活動している位置が核質と呼ばれるものに当たります。無核質は核質においては素粒子の全体性として反映されています。その意味では電子を始めとした素粒子を利用したテクノロジーは無核質を転倒させて利用していると言えますね。シュタイナーにいう堕落したエーテルのことです。
以下、雑感。
素粒子を土台にした物質世界全体が霊的世界(エーテル界・アストラル界・神界)の転倒として表現されているということが人間の意識にはまだ見えてない。その原因は自己が自分を他者と同類の存在と思ってしまっているからだね。自己存在が無意識化していて、まだ立ち上がっていない。その位置が核質という人間型ゲシュタルトの場所。
物質世界を「所与」と呼ぶなら、所与を与える当のものの世界があって、それをドゥルーズなんかは「差異」と呼んでいる。ハイデガーの「存在」も同じ。ヌースの言葉で言うなら、この「差異」や「存在」の世界が無核質に当たる。核質は対象概念の力と言い換えもいい。無核質は、その意味では主客未分離の意識領域のようなものだ。
精神的個や霊的個体というのは、この無核質が意識に形作られたときに初めて自覚的に生まれる。これは哲学でいうところの超越論的なものが構成されている場のこと。つまり人間の経験的意識を作り出している側の世界。この無核質は付帯質の内面領域(物の内部)で働いている。それを顕在化させようともがいているのがヌーソロジーの営み。
科学的唯物論というのは核質膜で世界が閉じている状態。存在者のみで世界を見てしまっているということ。それこそ所与を与えている当のもの側について一切思考しようとしていない。それがハイデガーが云う”存在忘却”というやつ。私たちが「ある」と思っているものは、むしろ全き無なのではないかと勘ぐったのがハイデガーなんだね。
この状況のことをOCOTは「付帯質の妄映」って呼んでいた。世界が目の前に見えてはいるのだけど、中身は空っぽで、ハリボテだということ。存在者の世界が存在を構成する高次元の影なら、まぁ、そういうことになるわな。
だから、ほんとうは、存在を通して存在者が見えるようにならないといけない。そのためには一度、物の内部に入ってそこから外に出て、”存在”のルートを目覚めさせる必要がある。それがヌーソロジーでいうところの位置の等換という作業。持続側から時間を出現させるということだね。存在は持続→時間によって存在者として花開く。
私たちはそこに至って初めて、世界のこの多様な現前を自分や他者との関係性の中で問うことができ始める。
これからの時代はその方向に向かうべきじゃないかと思うけどね。
10月 28 2022
反転はどのように開始されるのか―
ヌーソロジーがいう「付帯質」とは―
人間の意識は他者に見られている空間を土台にして存在世界をイメージしてしまっている。そして、その空間の中ですべてを概念化し、認識のネットワークを編み上げ知を体系化している。しかし、そこでの「見ている自分」も事後的に付帯されたものでしかない。このように「見られている世界」を土台とした世界認識のすべてが、ヌーソロジーが付帯質と呼んでいるものだ。そして、その中心に主人のようにして居座っているのが自我だと考えるといい。
では、付帯質を外すためには―
付帯質を外すためには、見ている空間自身に主体を感じとり、そこから世界を再構成していく思考を生み出していくことが必要になる。そこに本来の精神としての自己が出現してくるということだ。ヌーソロジーが”奥行き”を最重要視する理由もそこにある。
現状の確認―
科学的実在論のベースとなる素朴実在論。20世紀の存在論が壊しにかかったが、牙城は未だにビクともしていない。それどころか、この実在世界がもう一段階上にある実在世界のシミュレーションに過ぎないといったような、実在のマルチ構造へと世界観が逆走し出している。ヌーソロジーから見るならば、これは方向が逆。
一つの客観宇宙がまず外にあって、それを無数の主観が内から見ているという、この前提自体がマズい。実際には知覚されている宇宙が主観としてまずあって、それが無数に寄り集まって外の宇宙というイメージが作られていると考えないといけない。人間の意識は原因と結果が逆になっている。
これもまた、他者に見られるところに自我を養ってしまったが故の錯視による産物だ。本当の自己は、知覚世界そのものの中に浸透して生きている。見られる空間は後の4次元。見る空間は前の4次元。この4次元における二つの方向性が「私」を自我と自己という二つの存在に分裂させている。
こうした自分の二重の在り方に、多くの人がそろそろ気づいてもいい頃ではないか。後で皆んながつながる世界と、前で皆んながつながる世界との間には天と地の違いがある。後ろでつながる世界の中には自由はない。今世界を覆い始めているこの何とも言えぬ息苦しさは、後ろの帝国の完成の予兆のようなものだ。
哲学の言葉でいうなら、後は「実在」、前は「実存」となって理解されていると言っていい。文字通り、存在は「在」と「存」に引き裂かれているわけだ。この引き裂きは言葉の世界と知覚の世界の引き裂きでもある。この裂開を補修するには、まずは実存へと脱自し、「前」で皆んながつながる方向を見出すしか方法はない。
そのためにも、まずは、それぞれが「前」に自分を発見すること。そこからしか、世界の反転は生まれない。
前にあるものは対象ではない。前とは自分自身のことなのだよ―と。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, カタカムナ関連 • 0 • Tags: 付帯質