「意識の位置は無限遠点にある」という感覚を呼び起こすためのイメージトレーニングを書いておきます。
1.視野空間をモニター画面として意識してみる
世界は僕らの視野空間上に展開している。この視野空間をモニター画面のようなものとして見ることが必要。
モニター上には画像や映像が広がっていて、僕らはその中に「入り込む」ことはない。視点は常にモニターの外部にあり、僕らは画面の中のどこかに存在しているわけではなく、画面全体を「外から」見る位置にいる。
日常的な視覚体験もこれと同じで、僕らは3次元空間の中にいるというよりは、その 3次元空間全体をモニターのようにして、その外側から見ている。そのときの観察位置が無限遠点に当たる。
2.観測者の位置は不動である
この視野空間(高次のモニター画面)を見ている自分の位置、つまり観測者の位置は、物理的にどこかに動いたり変化したりするわけでは決してない。
映画館でスクリーンを見ている観客が座席を動かすことなく映画を観ているのと同じように、観測者の位置も本当は動いていないのだ。
視野空間の中で物体や景色が動いたり、時間が流れたりする一方で、観測者の位置そのものは不動で、むしろ、その時空間全体を外部からか捉えている。
3.自己視点は「無限遠点」にある
このように、一度、視野空間をモニターとして認識すると、観測者の位置が物理的な空間のどこにも属さず、むしろその外側に「無限遠点」として存在していることが直感的に理解できてくる。
僕らは、普段、さまざまな出来事を時空上でちらえているわけだが、その背後には、この時空というスクリーン全体を外部から捉えている、本来の視点があるわけだ。
この視点は絶対不動の位置として固定されており、時空には属さず、時空上でのすべての変化を不動の位置から観察していると考えられる。
自己視点とはそういうものです。

7月 10 2025
本来の自己視点を意識に浮上させるために
「意識の位置は無限遠点にある」という感覚を呼び起こすためのイメージトレーニングを書いておきます。
1.視野空間をモニター画面として意識してみる
世界は僕らの視野空間上に展開している。この視野空間をモニター画面のようなものとして見ることが必要。
モニター上には画像や映像が広がっていて、僕らはその中に「入り込む」ことはない。視点は常にモニターの外部にあり、僕らは画面の中のどこかに存在しているわけではなく、画面全体を「外から」見る位置にいる。
日常的な視覚体験もこれと同じで、僕らは3次元空間の中にいるというよりは、その 3次元空間全体をモニターのようにして、その外側から見ている。そのときの観察位置が無限遠点に当たる。
2.観測者の位置は不動である
この視野空間(高次のモニター画面)を見ている自分の位置、つまり観測者の位置は、物理的にどこかに動いたり変化したりするわけでは決してない。
映画館でスクリーンを見ている観客が座席を動かすことなく映画を観ているのと同じように、観測者の位置も本当は動いていないのだ。
視野空間の中で物体や景色が動いたり、時間が流れたりする一方で、観測者の位置そのものは不動で、むしろ、その時空間全体を外部からか捉えている。
3.自己視点は「無限遠点」にある
このように、一度、視野空間をモニターとして認識すると、観測者の位置が物理的な空間のどこにも属さず、むしろその外側に「無限遠点」として存在していることが直感的に理解できてくる。
僕らは、普段、さまざまな出来事を時空上でちらえているわけだが、その背後には、この時空というスクリーン全体を外部から捉えている、本来の視点があるわけだ。
この視点は絶対不動の位置として固定されており、時空には属さず、時空上でのすべての変化を不動の位置から観察していると考えられる。
自己視点とはそういうものです。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0