6月 28 2016
日本心性のふもとにて
先日6月21日の夏至の日、奈良在住の画家堀内亜紀さんの大神神社への絵画奉納報告祭に一講演者として参加させていただいた。今回のイベント参加への話は古くからの友人でもある小野満麿氏(以下、トーラス氏と呼ばせていただきます)の誘いによるもので、実は当の亜紀さんとは僕自身は一度も面識はなかった。
ヌーソロジーの話は聞く人によってはトンデモにしか聞こえない。昔、友人が地元の中小企業同友会の事務局をやっていて、彼の誘いにおいそれと乗せられてその総会で記念講演をやったのだが、現場は惨憺たる光景と化した(笑)。それ以来、外部からの講演依頼については慎重にセレクトしているのだが、実を言うと、今回の話も少し躊躇があった。というのも、場所が日本最古の由緒ある神社、大神神社であり、一般の人もかなり参列するかもしれないという。最初はこの話を受けるべきかどうか迷っていたのだが、亜紀さんが実際に奉納する作品を拝見して、その迷いも吹き飛んだ。
今回、亜紀さんが奉納した作品は『大物主命』と名付けられた作品である。普通、日本の神々を描いた作品はいかにもこれこそが神様!!という感じで神々しく威厳を持たされて描かれているものが多い。しかし、亜紀さんの作品は全く違った。そこに描かれている大物主が童子だったのだ。「新しく出現してくる創造の神は双子であり、それはまた幼児でもある」というのが僕がずっと心に抱き続けていた国つ神のイメージだった。アキさんの作品はまさにそのイメージにドンピシャだった。そして、そこにはあのOCOTのイメージもピッタリと被さった。
「アキさん、これってOCOTじゃないの?」
初めて作品を見せられたとき、僕は冗談交じりに言った。もちろん、アキさんがどこまでOCOTのことを知っているかなんてことは知らない。しかし、アキさんの口からもごく自然に「そう思います」という言葉が奈良弁のイントネーションで出ていた(笑)。
このやりとりで、話は決まった。この講演は是非やらなくてはいけない講演だと心底、感じた。僕にしてみれば、この30年間の自分の人生の歩みをこの奉告祭を通じて三輪山に眠る神様に報告する義務があると感じたのだ。
正直、僕自身、30年前に起こった一連のチャネリング現象が何だったのかはわからない。OCOT現象にしてもそうだ。精神病理学的な見地に立てば、統合失調症が引き起こした一つの幻聴という言い方で片付けることもできるだろう。しかし、OCOTは僕が知らないことをたくさん教えてくれたし、何よりも僕自身の生き方をそれまでの自分のそれとは大きく変えてくれたことも事実だ。あえて、大神神社と関連づけることだってできるだろう。OCOT自身、日本の古い神々についてやたら詳しかったし、「おこつと」という音の響きから言っても、間違いなく彼は日本の神々の系譜の中に含まれている何らかの霊の働きだと考えることもできる。そして、何よりも日本語の精神を「金(きん)」と呼び、現在の世界の言語を支える精神の母胎となっていると伝えてきたことなどetc。
さらに、もっと因縁めいたものを感じさせるのは、さっきも言ったように、この講演会の話がトーラス氏経由で舞い込んで来たということだ。
トーラス氏は約30年前、僕がヌーソロジーを始めるきっかけになったあの井之頭での発狂事件の現場にいた地球上唯一の人物である(笑)。これは当日の講演会の出だしの部分でも話したことなのだか、その人物が30年経っても尚、そばに亡霊のようにくっついており、日本の原-霊と言っても言いすぎではない大物主が祀られている由緒ある大神神社にて、二人揃って、それも夏至の日に大物主についての話をさせていただく機会が来るなど、一体、誰に予想できただろう。こりゃ、僕目線からすればほとんど奇跡に近い出来事なのだ。ほんと運命とすら言いたくもなる。
そのトーラス氏の講演会が午前中で終わったあと、午後から奉納奉告祭が拝殿の方で厳粛に執り行われた。祝詞、舞の献上を終え、亜紀さんに続いて、トーラスさんと二人で参列者を代表し玉串の奉納をさせていただいた。僕はさほど信心深い人間ではないが、このときばかりは、亜紀さんが描いた大物主命にOCOTのイメージを重ね、ここまでの自分の30年間にわたる作業の経過を玉串に乗せて大物主神に奉告した。
奉納奉告祭が終わった後、すぐに講演会の午後の部が始まり、僕が壇上へ。
トーラスさんが種々のデータに基づく緻密な話を準備していたので、僕の方はヌーソロジーを知らない人もかなりいるということで、思いっきりラフなかたちで話を進めた。いつものレクチャーでやるような構造論は一切避け、チャネリング体験の話に始まって、古事記の神々の背後にある霊統の話、そしてその中に占める日本の心性とはいったい何なのか。そういう流れで話を進めていった。
最後に日本語の精神について話しているとき、不覚にも目頭に熱いものを感じてしまった。自分の講演でこんなウルウル気分になったのは初めてのことだ。実は30年前の自分がそこには同時にいた。精神病院に叩き込まれ、薬づけで廃人同然になっている自分。そこから出てきて、人生の目的を見失い失意のどん底にいた自分。その時空と、壇上の時空とがはっきりと結びついていることをそのとき感じ、過去のその自分にガンバレよと声をかけてやったのだ。その因果具時感覚で思わず、ウルっときてしまった。
最後に、日本語の精神を持って生きるわたしたち日本人に詩的なメッセージを読み上げて、会は無事終了。
ほんとうに素晴らしい集まりに招いていただきました。
亜紀さんをはじめ、裏方で奔走してくれていたラムーコ氏、鈴木寿美子さん、ツッチーにこの場を借りて心からお礼申し上げます。どうもありがとうございました。あと、今後も亡霊のように取り憑き続けるであろう”アンドロメダ”のトーラス氏にも(笑)
※下写真は画家・堀内亜紀さんと奉納された絵画「大物主命」と、珍しくスーツ姿で神妙な面持ちのワシ、そしてトーラス氏。
7月 1 2016
まずは「円心」という概念をマスターしよう!!
人間は「世界に包まれて在る」ことはすぐに感覚化できるのですが、「世界を包んで在る」自分に対しては全くの不感症になっています。これは物質的自己と霊的自己の対称性が大きく崩されているということを意味します。ヌーソロジーでは「世界を包んで在る」自己の空間感覚の獲得が霊性を復活させめための必須条件であると考えています。
古代の原始キリスト教がイエス・キリストが宿る場所として示したヴェシカパイセスという形象があります。この形象が物質的自己と霊的自己の力の均衡を象徴化したものだと考えるといいと思います。このカタチのことをヌーソロジーでは「円心」と呼びます。 円心とは「円においては円周と中心は入れ替えが可能」という意味を持つ言葉です。→下図参照のこと
この円心の図で点aを肉体の位置、点Sを対象の位置と考えるといいと思います。「世界に包まれて在る」感覚は点aを自分の位置と見なしている意識が作っています。一方、「世界を包んで在る」感覚は点aが円周になっている円の方です。
こちらの円の中心点Sにおいてはaを囲んでいる円が中心の一点にまとめられています。つまり、自分の周囲に無数の対象があるとすると、点Sを中心点とする円側ではそれらがすべて重なって一点の上に見えているということです。
この空間は以前からお話ししている「観点の球面化」が達成されている空間のことを意味しますが、この空間は純粋持続が働いている空間側であり、持続であるがゆえに中心点Sは非局所になっています。非局所(あらゆるところ)が一点に重なって在るということの意味は、すべての記憶が重なって在るという意識的事実に対応していると思ってください。人間が目の前で過去を想起できるのも、持続に支えられた非局所が目の前に重なってあるからだと考える、ということです。それが中心点Sの意味です。
この持続に支えられた非局所点Sはその意味で「純粋過去」の位置と呼んでいいでしょう。純粋過去とはドゥルーズの表現を借りれば次のようなものです。
1.純粋過去は現在と同時なものとしてある。
2.純粋過去自体は過ぎ去らないし、到来もしない。
3.純粋過去は”存在した”ものではなく、存続し存在するものである。
4.純粋過去は過ぎ去る現在に先立って前存している。
記憶の容器としての非局所的空間が目の前に重なっていることを各自確認してみてください。その空間は、実は自分の周囲に見ている空間がグルッと反転したものなのです。皆さんの魂のカタチと呼んでもいいでしょう。十種神宝にいう「生玉」のことです。
後で強く感じてくることになると思いますが、この「円心」という概念は霊的空間を幾何学的に描像するための極めて強力な概念です。このカタチが思考に浮上してくることによって、わたしたちは時間が存在していない持続空間の構造を徐々に見ることができるようになってきます。そして、結果的に、それは現代物理学が記述する素粒子の世界の風景とピタリと重なり合ってきます。それはそれは恐ろしいくらいです。
素粒子世界との関係については、また、次の機会にでも話してみますね。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: 円心, 十種神宝