7月 28 2025
目の前の空間には二つの異なる空間が重なり合っている
以前、ヌーソロジーの観点から、自然本来の空間と人間の文明を作り出した空間は全く別の空間ですよ、という話をした。
前者は外延意識が先行した知性が活動する空間。後者は内包意識が先行した知性が先行する空間。目の前の空間にはその二つの空間が重なっていますよ、と。受動知性と能動知性の関係だ、
もちろん、今の僕らの常識はそういう目で空間を見ていない。どちらも同じ空間の中で生成されているものだと考えている。
しかし、ヌーソロジーの時空観からすれば、両者は全く逆の方向を向いた空間で、決して溶け合うことはない。
そこから改めないと、意識、生命、についてはおそらく何も分からない。
芸術家の中にはこうした空間の真実を直感し、ストレートに表現する作家もいる。
存在者の時空で発展しているのが今の人間の歴史。
存在論的時空で発展しているのが、自然界の歴史。
両者は全く違う時空の中で活動している。
それを表現しているのが、この絵画だよ。
ここは、きっちりと文章で記しておこう。
⚫︎デビット・アンバルジュムジャンの作品に触れて
都市の風景の中に突如として現れる森や動物たちは、まるで異次元から流れ込む精霊たちのように見えないか?
都市と野生の重なり——。
私たちは何気に、公園や動物園、近くの山でこうした風景を経験するわけだが、ここには、人工と自然の時空が交わる地点としてのレイヤーが生まれている。
このレイヤーは、私たちが認識する外的な物理空間と、内的な存在論的空間が接続する場とも捉えることができ、ハイデガーが述べた「開け」としての「世界」を想起させる。
存在者の時空が日常の都市空間を形成する一方で、存在論的時空はそれを超越した自然の真理として見えない境界から流れ込み、そこに異質なリアリティを現出させているのだ。
アンフラマンスに隔たれた、このレイヤーに気づくこと。
自己と他者の空間の交錯もまた、このような形において現実化しているのである。
7月 29 2025
ノス先手の空間からヌース先手の空間へ
受動知性の空間と能動知性の空間について、もう少し具体的に説明しておきましょう。
人間の知性(受動知性)というのは、すでに「与えられたもの」から知識や理解を引き出す知性のことです。私たち人間は、自分たちが観測・認識できる空間の中で知性を働かせ、物理的・概念的な枠組みの中で思考や活動を行います。この受動知性は、目の前の「結果」から物事を理解しようとする、ある種の「後付け」の知性です。
一方、能動知性(ヌース)は、存在そのものを創造し、秩序を生み出す源としての知性であり、あらゆる自然の背後にある創造的な知性のことです。これは人間の知性とは異なり、結果ではなく「源泉」として働き、存在や現実の基本的な秩序を内側から構築している意識です。自然そのものがこの能動知性によって成り立っており、人間が理解しようとする「現実」の根本的な構造を形作っているわけです。
こうした視点に立つと、ヌーソロジー的に「二つの異なる空間」が存在するというのは、以下のようなことを意味します。
1.能動知性の空間
自然の背後に存在する創造的な知性(ヌース)が構成している空間で、真の主体が持つ意識の働きによって形作られています。この空間は、自己の内包的な基盤から全体を生み出し、秩序を創造するダイナミックな働きが内在しているため、人間の認識とは別次元のものです。
2.受動知性の空間
人間の知性が「与えられたもの」を認識することで成り立っている空間です。人間は自然の秩序や構造に対して受動的な立場で理解を深めていきますが、その認識は能動知性が生み出した結果の中で行われています。つまり、受動知性は創造的な力を持たず、観測や認識に基づく理解を積み重ねているだけの状態です。
この二つの空間は重なり合っていますが、互いに反転し、対立する関係にあります。つまり、「存在空間の二重構造」とも言えます。人間の受動知性は、能動知性が創造する秩序や空間を理解することが難しく、同じ空間にいながらも異なる方向性を持っているため、自然と人間の文明は異なる質の空間として存在しているということです。
この観点から見ると、現代科学が自然と文明を同じ4次元時空として一様に捉える限り、能動知性(ヌース)の次元にアクセスすることは難しいでしょう。
ヌーソロジーの視点は、自然を創造する本来の知性(ヌース)と、それに対して受動的に知性を発揮する人間の意識の違いを見抜き、私たちがその背後にある「真の主体の知性」に気づくためのビジョンを提示しているわけです。
この気づきがなければ、意識や生命の本質的な理解には到達できないと言っているわけです。特に現在の科学的知識は、このような空間に対する視点において、深刻な混乱に陥っています。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0