ヌースレクチャー#3のためのドゥルーズ哲学の予備知識——その3

3.ドゥルーズが研究した哲学者たちとそのキーワード・「ヒューム」/経験論」
 
『差異と反復』を発表する前の初期のドゥルーズはヒューム、ベルクソン、スピノザ、ニーチェといった哲学者たちの思想を研究していったんだけど、『差異と反復』で結晶化してくるドゥルーズ哲学の形(なり)を見ると、ドゥルーズは半ば確信犯的にこれらの哲学者たちを追いかけていったのだな、ということが想像されてくるんだよね。ここで「確信犯的」と言ってるのは、ドゥルーズには実は最初から自分が構築していくべき哲学のビジョンというものが明確にあって、その構築に向けて必要となる哲学者たちをチョイスし、これから自分が作り上げるべき思想に沿って、彼らの思考の足跡を分析、解釈していったふしがある、ということなの。麻雀で言う「決め打ち」ってやつかな^^。そして、引きが強いドゥルーズは自分の直感通りに牌を引いてきた。もちろん、最終的に「ロン!!」というところまでは行けなかったのだけど、僕的にはドゥルーズは役満をテンパってると思ってる。あとは世界が当たり牌を振り込んでくれるのを待つのみってところ。そこでウラドラの役割を果たすのがヌーソロジーかもしれない。。上がりのオマケがポコポコついてくる。ダブル役満!! トリプル役満!!\(^o^)/ ってな感じで(笑)。
 
で、若き日のドゥルーズが「確信犯的」に何を目論んでいたのか、ということなんだけど、これは一言でいうなら「主体性の哲学からの脱却」と言っていいと思うよ。「主体性の哲学」とは、簡単に言えば、いつも「オレ、オレ」とか「わたし、わたし」といった囁き声が中心にあって、そうしたかしましい自我中心体から抜け出ることのできない思考から組み立てられた哲学、のこと。「われ思うゆえにわれあり」と言い放ったデカルトの哲学などはその典型だね。こうした自我中心の哲学を解体すること。ドゥルーズの思考はスタートから、そこだけに照準を向けて蠢めき出したように見えるんだよね。
 
 そこで最初に研究したのがヒュームという哲学者だった。何でヒュームかというと、ヒュームは「経験論」の哲学者として「合理論」の哲学者であるデカルトを徹底して批判してたから。経験論とは、一言でいえば、主体は経験によって立ち上がってくると考える哲学のこと。デカルトのように「我」が理性とともに最初から意識を支配しているのではなく、主体(人間の心)というものは、本来、経験の寄せ集めのようなものでしかなく「知覚の束」として立ち上がってくるとする考え方。「わたし」が世界を経験しているのではなく、世界の経験が「わたし」を作ってるという考え方だね。
 
 こうした経験論の哲学で重要視されるのは、理性によって客観化された世界の事物云々ではなく、主観によって現実的に経験されている知覚世界の方であり、またその知覚とともに活動している情念の力の方ということになる。実際、ヒュームは「理性は情念の奴隷であり、そうあるべきである」とまで言ってるんだよね。そして、否定しがたい事実として、僕ら生身の人間にとっても、情念の力の方が理性の力よりもいい意味でも悪い意味でも勝ってるというのは明白なところ。ここに、すでに主観的なものの方向に意識の脱出口を求めるドゥルーズの思考の萌芽があるんだよね。「合理論」より「経験論」の重視。客観(理性)より主観(感性)の重視(正確には「主体なき主観」といった方がいいけど)。これがまずドゥルーズの第一の立ち位置と思ってもらえばいいよ。

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