8月 6 2018
ハイデガーのいう「存在」とは「霊」のこと
今回もハイデガー絡みの話。人間としてはあまりいい評判を聞かない人なんだけど、ハイデガーが頭の中で考えていたことは、誰がなんと言おうとも、やっぱり重要なこと。無視できない。
新プラトン主義から派生したドイツ神秘主義はもちろんのこと、そのルーツとなる古代のオカルティズム(古代ギリシア思想や東方の神秘思想)をいかに現代の哲学の中に蘇らせるか、ハイデガー哲学の独自な言葉遣いも、その動機に起因しているように思われる。ここはベタにその化粧を剥がしてみよう。そうすれば、少しは馴染みやすくなるかも………。
こういうことを言うと専門家に怒られそうだけど、ハイデガー哲学に馴染めない人は、存在とは霊、存在者とは物質、というように置き換えて読むのもいいかもね(「存在者」には目に見えないものも含まれているけど)。そうすると、存在と存在者の差異ってのは霊と物質の差異ということになる。
目の前の自然が単なる物質(存在者)にしか見えない症状―それをハイデガーは「存在忘却」と言うんだけど、これは「霊界忘却」と同じ意味だということだね(笑)。ただし、ここで言う「霊」とはあくまでもガイスト(=精神)のこと。ハイデガーでいうなら、これが「根源的時間」に当たる。
ハイデガーの哲学では、人間は存在者と存在の中間に住まう存在者として「現存在」と呼ばれてる。この文脈で言うなら。「人間とは霊へと方向づけられた物質」ということにでもなるかな。
人間の意識は、この霊への方向づけがあるからこそ成り立っているのであって、ベルクソンの場合は、この「霊」を「意識に直接与えられたもの」として「純粋持続」という言葉で表現したわけだね。
ハイデガーの哲学では、人間は存在者と存在の中間に住まう存在者として「現存在」と呼ばれてる。ここでの文脈で言うなら、「人間とは霊へと方向づけられた物質」ということにでもなるかな。
人間の意識は、この霊への方向づけがあるからこそ成り立っているのであって、ベルクソンの場合は、この「霊」を「意識に直接与えられたもの」として「純粋持続」という言葉で表現したわけだね。
時間が流れている世界で物を考えている限り、思考は存在者の世界からは逃れられない。思考が存在(根源的時間)に触れるためには、当然、時間のない世界に身を投げ入れるしかない。ハイデガーのいう「死の先駆的覚悟性」というのも、そういう意味だと考えるといいと思うよ。
そんなことしたら、時間の流れと共にある地上世界を無視した思考になるじゃないか、思う人もいるかもしれない。だけど、それは違う。目の前の自然には存在者と存在が重なり合ってある。この存在論的思考というのは、この重なりが見えるようにしようする試みなんだと思うといい。
言い換えれば、生者の世界と死者の世界の境界を取り払って、この世界をその大元から再構成する作業だということ。
存在の抜け殻としての存在者―物質を亡霊と呼ばずして何を亡霊と呼ぶのか。だから、目の前に現れてくる他者とは何者なのかと訊かれたら、オレはいつも言ってやるんだよ。「神の亡霊だろ」って。そうやって、人間と神ってのは存在者と存在の名のもとに重なり合っているのさ。
9月 5 2018
観察されるマクロ系と観察するミクロ系という発想を!!
物質の大元は何か。それは素粒子である。素粒子とは何か。それは波動関数である。波動関数とは何か。それは複素数の波である。複素数の波とは何か。それは複素共役を取れば、存在確率として解釈できる何かである―これが今のところ、物理学で分かっている物質の究極の姿。


物質の究極が確率なら、それが無数に集まってできたオレの世界だって確率にすぎないだろと、物理学発のニヒリズムを自分の人生に重ね合わせて人生自体ニヒリズム化する連中もいる。また、そうした空虚な実在感は社会の在り方にもボディーブローのようにダメージを与え続けている。意味の場の喪失。
けれども、「危機のあるところ、救いとなるものもまた育つ」。量子論は科学的知性に裏付けられているという意味では、歴史上展開されたいかなる形而上学よりも、最も真理に近い形而上学的書物ではないかと感じてる。問題はその行間を読み解く知性が人間側に不足しているということ。
では、どのような知性が不足しているのか。ここは、ハイデガーに倣って存在論的知性と言っていいと思う。ベルクソン=ドゥルーズに即して言うなら、「潜在的なもの=差異」の知性だ。
この知性とは何か―それは過去を存在として看取できている知性と言っていい。過去は過ぎ去って、現在にはもうないものとして片付けるのが人間の知性だが、この知性は過去の総体そのものとして、今「在る」。
この「在る」の重みの感覚を身体を始めとするすべての存在者に重ね合わせて感じ取らないと、量子論もまた真理として読むことはできない。なぜなら、存在するすべての事物はこの「在る」ことの中において生成し、その「在る」のむき出しの姿が量子そのものではないかと考えられるからだ。
たとえば、ある物理学者は次のように言う。
―量子の状態は観測されるミクロ系と、観測するマクロ系の間に位置するものであり、ミクロ系に備わっている物理的実体なんかではない。
彼はミクロ世界には物理的実体がないことを十分に承知している。つまり、すでに彼にとってはミクロ系は存在者の世界ではない。そこは、存在者の感覚を持ってしては絶対に入れない領域、つまり、絶対的差異の領域で「在る」と知っている。かつ、それが何かを考えることが物理学者の役割ではないことも。
ただ、彼はここで致命的な勘違いをしている。それは「観察されるミクロ系」と「観察するマクロ系」という表現の中に表れている。つまり、彼は最初からミクロ系(量子)を観察されるものとして対象化してしまっている。その先入観自体が彼がミクロ系から締め出される原因になっているとしたら。
要はすべてが逆なのだ。世界中のどの物理学者にも、観測されるものがマクロ系で、観測するものもがミクロ系だという発想がない。人間の身体であれ、脳であれ、それらは観測されるものである。観測しているものは一体どこにいるのか―それがミクロにいるという発想がないのだ。
奥行きを通してミクロの系へと侵入しよう。それさえできれば、ハイデガーのいう現存在としての人間は存在の只中に新しい原初として立つことができるようになる。それは量子の謎を解き、存在者の世界を覆っているニヒリズムの海を瞬く間に蒸発させていくことだろう―来たれ、救済の十字架。複素平面よ。
下写真 「デュシャンの量子化」ヌーソロジー作(笑)
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ドゥルーズ, ハイデガー, ベルクソン, 波動関数, 素粒子, 量子論