3月 5 2018
高次元知性体について—新しい超古代へ
高次元知性は存在する。そして、それはあらゆる人の中に眠っている。何度も言ってることだが、この高次元知性を発現させるためには空間の質を延長から持続に、空間の根拠を幅支配から奥行き支配に変えていくことが必要だ。それによって今まで時間と空間と呼んでいた超越的なものが、超越論的に思考されるようになり、外的時空は内的協働の場へと変貌していく。
持続空間なのだから、ここに生まれる共同体は生者のみならず死者をも含む。持続的生命としての死者が復活するのだ。生死の境界が外されると言ってもいい。よって、今までのように生権力が死者たちを自分の都合で利用することもなくなる。死んでいった英霊たちのために云々、などといった驕り高ぶった文言はもはやギャグにしか聞こえなくなるからだ。
もちろん、現実主義者には世迷言にしか聞こえないだろう。しかし、残念ながら、それでも高次元知性は存在するのだ。高次元知性は感性的なものに従属していた思考から逃れ、感性自身を能動化させていくために思考する。つまり、感覚自体を変化させるための思考というものが存在している。持続空間における思考は必然的にそのような思考になると考えよう。
人間の理性の極みの中に出現してきた素粒子とは、その高次元知性から差し出された道標のようなものだ。だから、感性に従属した従来の思考では素粒子のミステリーは解けない。時間と空間を感性の直観形式と見なす理性では問題の立て方自体が間違っているということになるだろう。わたしたちは、そこに、「存在とは別の仕方で思考せよ!!」という督励を読み取らなければならない。
持続を直観の形式へと変えようとしたベルクソンはおそらく正しい。今こそ空間の質的転換が必要なのだ。自分の内部で永遠に続いている生命を奥行きの名のもとに空間そのものとして見なすこと。そして、そこから世界を再構成していく異次元の思考を立ち上げること。それをすでに行ったものが高次元知性だと考えるといい。だから、世界はこのように在り、わたしがいるのだ——。
高次元知性体は目に見える身体を持たない。高次は持続空間であり、非局所的なものだから、これは当然のことと言える。私たちが日頃親しんでいる物質的身体は、その高次の非局所の方向性をフィックスするために結晶化させられたものだと考えよう。だからこそ、身体は局所的存在でありながらも空間的移動を可能とし、局所と非局所の結接点として生きているのだ。
このような考え方をしていると、延長空間では身体は動いているが、持続空間では身体は動いていないという二重の身体空間が自然に感覚に浮上してくる——いわゆる「バイスペイシャル」だ。現在のわたしたちにまるまる欠落しているのは、この後者の感覚の方である。実際にそれが存在しなければ、当の自分さえ消えてしまうにもかかわらず、この不動の空間の方が思考に全く上がっていない。
持続を浸透させたそうした不動空間がそれぞれの個体の位置感覚(「いる」感覚)を担保している。そして、そのような不動性が無数より集まった高次の絶対的空間が存在しているからこそ、それぞれの精神は己自身の運動を可能とし、協働性の名の下に生命の潮流を作り上げていくのである。そこに未だ自覚されていない「わたしとあなた」という関係の本性があり、高次元知性体が作り出す高次社会の意味があるのである。
3月 23 2018
人間を変形(トランスフォルム)し、宇宙的胎児へと変えてていくためにヌーソロジーが選択した方法論について
タイトル、長 !(笑)
今日もまた執拗にヌーソロジーのエントランスの話。ここは手を変え品を変え、何度でも話していく。いひ。
今、自分の眼の前にリンゴがあるとしよう。「人間の内面」では、リンゴは下図のようなイメージで捉えられている(下図1)。
こういう概念枠で世界を見たとき、「わたし」はどこにいるのだろうか?肉体として捉えられる「自分」だろうか?そう考えているのが、普通の良識というものだね。
しかし、いかんせん、知覚の現実はそうなってはいない。「自分の前にリンゴがある」とは、こういう状況を示している(下図2)。
こうした空間をヌーソロジーでは「人間の外面」と呼んでる。「人間の内面」と「人間の外面」。。違いが分かるかなぁ?違いがすぐに分かる人は、ヌース的センスがある。分からない人は、さようなら(笑)、うそ、分かるまで考えようね。
ここに示した「人間の内面」を男の空間、「人間の外面」を女の空間と呼んでいいかもしれない。この二つの空間は全く別物なのに、今の僕らはゴッチャにしている。いや、正確に言うと、「人間の内面」が「人間の外面」を従属させて、抑圧している。それが結果的に、人間を苦しめ、世界の何たるかを全く分からなくさせていると思っていいと思うよ。いつも言ってるように、これらは社会的個として生きる「わたし」と、精神的個として生きる「わたし」の関係のようなものだ。
この図1と図2だけど、哲学者の大森荘蔵も、これらの関係を「面体分岐」と呼んで区別したんだ。ただ、この呼び方だと図2(面)が図1(体)の一部でしかないように聞こえてしまって、「人間の外面」があたかも「人間の内面」の空間の中に含まれているかのような印象を与えてしまうよね。
ヌーソロジーは両者の間には絶対的な差異があるよ、と言いたいのね。別個の生き物なの。だから、はっきりと別物として見ないとダメ。
じゃあ、たとえば、どんな差異かと言うと、図1では「わたし」は空間の中を動き回る存在として理解されるけど、図2では「わたし」は決して動かない。TPV/FPV(三人称視点と一人称視点)の関係だね。つまり、図1では、「わたし」は様々な位置で物を見てるってことになるけど、図2の方では、「わたし」は一つの位置で様々なものを見てるわけ。つまり、絶対不動の「わたし」になってる。
不動ということは、図2の「わたし」の方は3次元空間の中にはいない、ってことだよね。じゃあ、どこにいるのか—当然のことながら、3次元の外にいるってことになる。その3次元の外を「無限遠点」という場所にしよう—というのが、ヌーソロジーの考え方。
このへんはシュタヌー本でも書いたけど、数学では3次元空間に無限遠点を付け加えると、3次元射影空間というものになるのね。
だから、図2の空間は、本当は3次元射影空間というものになってると考えなくちゃいけない(下図3参照/xyzに対して直交してるってこと)。このとき、「見る」=奥行きというのは原点への射影線になっていて、これは図からも分かるように、4次元空間の方向にあるんだ。
つまり、4次元意識というのは、自分は動いていなくて、世界の方が動いていると考えるところに、そのベースがあるということだね。
このときの4次元が、ヌーソロジーが「真の奥行き」と呼んでいるもので、時空と絶対的な差異を持ってる方向ってことになる。で、ここにベルクソンのいう「純粋持続」が生まれていると考えるわけだ。
で、この4次元方向を「虚軸」と見なして、4次元における自他関係を考慮しながら、現代物理学が素粒子と呼んでいるものと接続させていく。
結果的にこの方向に素粒子空間の発展プロセスが展開していき、個体化のプロセス(人間の自我を成り立たせているもの)が作られて行っているのだけど、このプロセスを通して、「人間の内面」も実は「人間の外面」から作られていることが分かってくるだよね。これらのプロセスをすべて思考に浮上させて、時空の裏に息づく、自分自身の裏身体の空間を作っていくことがヌーソロジーの当面の目標ってことになる。顕在化ってやつだけどね。
………………………………し〜ん。(笑)
ありゃ、スピ大好きの女性群からは「男の思考~!!」って声が聞こえてきそうだけど、でも、そうじゃないよ。従来の女に騙されてはダメ。これは、女の領域に男であったものが救済に入っている、って見ないといけない。精子(ロゴス)が卵子(パトス)に侵入しているわけ。というのも、人間の外面を思考しようとしているわけだから。
ヌーソロジーが意識変容のために何でこんなリジッドな方法論を取るのかというと、こうした差異の思考が生まれて初めて、人間は物質的意識(人間の内面の意識)から解放されると考えているから。無意識を能動的に意識化することによって、初めて今までの意識の勢力を沈静化できると考えてるってこと。
感覚に即した思考を自動機械のように反復させるのではなくて、感覚自体を変容させる思考を感覚に抗って作り出していくことが反転における反-思考というもの。幾何学的構成(カタチの形成)はそのための強力な力になると思ってる。
ここで生まれてくるカタチこそが卵割であり、宇宙的胎児の誕生なんだよ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ベルクソン, 内面と外面, 大森荘蔵