7月 14 2017
人間の先史が作り上げた古代都市について
永遠の現在―ドゥルーズは記憶内容としての記憶の根底に、もっと深い収縮としての記憶があると言う。~~われわれの知覚はそれぞれの瞬間に《記憶された無数の要素》を収縮し、われわれの現在はそれぞれの瞬間にわれわれの過去を無限に収縮する。『ベルクソンの哲学』P.80
こうした過去のことを通常の過去と区別して、ドゥルーズは純粋過去と呼ぶ。それは過ぎ去って存在しなくなった過去ではなく、現在とともに現存する過去のことを言う。純粋過去の特徴はおおよそ次のようなものだ。
1.純粋過去は現在と同時だということ。
2.純粋過去自体は過ぎ去らないし、到来もしない。
3.純粋過去は”存在した”ものではなく、存続し、存在するものである。
4.純粋過去は、過ぎ去る現在に先立って前存している。
こうした純粋過去の場所について、それが「奥行き」の中に眠っているとドゥルーズは『差異と反復』で仄めかしてはいるのだが、その場所探し、その地図作成について深くは追及していっていない。
この奥行きの探索は言ってみれば地底探検のようなもので、そこでは時間が止まった世界の風景が球形のアーキテクチャとして層をなしている。シュタイナーの言葉でいうならエーテル界だ。それは存在の洞窟において最初に見えてくる物質原像(無生物を作りだしているイデア)の世界と言っていい。
この垂直の深みに息づく球形のアーキテクチャの層は時空という水平面の世界では「回転」の多重性という形で影を落としてくる。それがいわゆる波動関数を基本にして表現される素粒子世界だと考えるといい。
このアーキテクチャは人間の先史が作り上げた、一種の古代都市のようなものと言い換えてもいいだろう。それは精神が作り上げている共同体のことでもある。それが今では流れ行く時間の勢力のもとに見事にバラバラに破壊され廃墟と化している(素粒子を粒子や波動として捉えるときなどが特にそう)。
このアーキテクチャを僕たちの認識に再構成することは不可能なのだろうか。幅の世界の中で水平化してしまった人間の欲望を、奥行き方向への垂直化した欲望へと切り替えていくことが必要だ。そのためにも人間の先史が作り上げた古代都市の姿の、せめて設計図だけでも復元したいと思っている。
9月 1 2017
ロゴスの変質に向けて——理性によって理性を解体するために
物理学は物質の究極にたどり着いた結果、そこに精神、つまり観測者自身の持続(虚的なもの)を見るに至った——まぁ、これがヌース的思考の出発点を意味するのだけど、にもかかわらず、その方向への思考の侵入を頑なに拒んでいるのが時間と空間という延長(伸す=ノス)の力だと思うといい。
精神の本性は持続にあるが、人間においてはこの持続が空間(延長)に従属しているために線的にイメージされてしまう。それがわたしたちが時間と呼んでいるものだと考えるといい。奥行き=精神が横に向いてしまい、ベルクソンの言い方を借りるなら無限に弛緩しているということ。
こうした流れる時間の世界と流れない時間の世界の協働によって、わたしたちは時間の流れを感じているわけだが、こうした構造を目の前の空間上にエーテル知覚として文字どおり描像していくことが高次元認識の土台を作っていく。そして、それが実際、SU(2)(非局所性としての複素2次元空間における回転)の描像であったりするわけだ。
空間を奥行きで構成し始めると、空間が実に多様なカタチで編まれているのが分かってくる。すべては始まりに自己と他者における奥行きと幅という捻れの関係があるからだ(この捩れ関係が本当は自他世界の差異を担保している)。この差異が成長していく空間は「何もないカラッポの空間」という従来型の延長空間のイメージとは大違いで、精神による次元の無限の拡張運動が展開する世界によっている。
物質の内部から見た内部世界のことだ。
本当は、こうした世界を霊的世界と呼ぶのが正しい。
永遠の相のもとに思考する——ということは過去の哲学が何度も訴えてきたことなのだけど、それは常に詩的イメージや抽象的な哲学用語の中でのトライアルだった。従来の時間と空間に変質を与えるまでには至らなかったのだ。
しかし、奥行きの差異化によって出現してくる持続の幾何学の思考は全く性格を異にする。それはダイレクトに時間と空間(人間の意識の形式)を解体させる力を持っているような気がする。理性が理性自身の力によって理性を乗り越える。たぶんロゴスのこうした変質をヌースと呼んでいいのだろうと思う。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: SU(2), ベルクソン, ロゴス