10月 8 2025
観察のはじまり
とにかく言いたいことは、
「観察する行為」とは宇宙の始まりだということ。
それが「意識の反転」。
観察のはじまり
ひとは見る。
世界を、星を、
手のひらに乗せた小さな林檎を。
だが──見るということは、
そこに既にあるものを
ただ受け取ることではない。
見るということは、
はじまりを告げることなのだ。
未明の闇に、ひとすじの光が
静かに走るように。
視線が定まったその瞬間、
世界ははじめて「かたち」を持ち、
その者の中心から、宇宙が生成される。
これが「意識の反転」
──世界が自分の外にあるのではなく、
世界は自分の内から開かれてくるということ。
静けさの奥で、
誰もが一度は聞いたことのある、
その最初の問いが、
ふたたび、胸の奥に甦る。
「私は、どこから世界を見ているのか?」
その問いを携えたまま、
あなたは世界の始まりに立ち会っている。
今この瞬間、見るという行為を通じて。
10月 9 2025
「位置」
「人間には位置が生まれていない」
それがOCOTの口癖だった。
位置………位置って何だ?
それを考えるだけで1年は費やした。
答えは単純なところにあった。
見ること——それが「位置」の異名だった。
よくよく考えてみれば、
いつからか、「見る」ということが、
世界の内部に閉じ込められていた。
観測者である私が、観測される側へと
いつの間にか、すり替わっていたのだ。
けれど——幼い記憶の中で、たしかに覚えている。
“見よ”という呼びかけが、外からではなく、
内側の内側から響いていたことを。
その声が起こるとき、空間はまだ空間ではなく、
時間はまだ流れてはいなかった。
それは、ただ、方向を持たない感受の源だった。
そこに、私はいた。見るよりも前に、
「見るという出来事」が私を生み出していた。
だから今、私はこうして問いかける。
「私は、どこから見ていたのか?」
——その問いを思い出すとき、世界はもう一度、私の内に還ってくる。
時空の向こうから、観察の秩序がそっと、私の素性について囁いてくる。
それが腑に落ちたとき、 観測者の位置の回復が産声を上げる。
⚫︎「位置」が生まれると………
位置が生まれると、自己と他者が「人間」という枠から離脱する。
ここで「人間」と呼んでいるのは、生物学的人間、つまり、人間という種で一括りにされた、差異なき自他という意味だ。この視点が、人間の可能性を封じ込めている。
考えてみよう。
私たちが普段「私が世界を見ている」と思っているとき、
実はすでに「他者の目線から自分が何を見ているか」を無意識に演じている。
つまり——見ているようで、見られている自己として振る舞っているということだ。
この無自覚な意識的転落が、「世界=客観的にそこにあるもの」という思い込みを生み出している。
つまり、問題の本質は、「他者視点で世界を見る」ということが当たり前の感覚になっていて、人々が“世界を見る自己”ではなく、“世界から見られている自己”に無自覚なまま生きていることにある。
⚫︎物質の秘密
この無自覚な転落的反転が、「世界=客観的にそこにあるもの」という思い込みを生み出しているということだ。では、自己視点が奪回されると何が見えてくるのか——
物質の秘密がわかる。
つまり、私たちが普段「物がある」と思っているその“物質”とは、実は、他者視点化された自己の前に浮かび上がってきた、自己視点の世界だということた。
存在自体が自分を見るために、他者視点化し、そこに生まれてきたのものが、物質的世界と人間だということ。その詳細を、素粒子レベルから懇切丁寧に説明を与えて行こうとしているのが、ヌーソロジーだと思って欲しい。
というか、素粒子が自己視点の始まりの世界なので、これは、存在からの必然的な要請でもある。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: OCOT情報