9月 30 2025
ヌーソロジーから見たゲージ理論
ひとつの糸がある。
それは、まだ誰の目にも触れないまま、
静かに中心へと巻き取られていた。
その螺旋は、どこまでも内へ、
意味の奥へ、記憶の核へと沈んでいく。
θ ─それがその糸の名だった。
時を知らず、空間を持たず、
ただ、存在の芯へと降りていく、
内在という名の旋律。
そしてある瞬間、
その糸が外へと引き出されていく。
ひとつの空間点 r に、
ひとつの時間点 t に、
そっと触れながら、
糸は姿を変え、色を持ち、
“世界”という名の布を織りはじめる。
だが、それは始まりでも、終わりでもなかった。
内に巻かれたθと、
外に引かれた(r,t)との調和の関係そのものが、
すべての像を支えていた。
e^{iθ(r,t)} ──この数式は、
ただの回転ではない。
それは、内在の糸が外在を包み、
外在が内在を感じ取るための瞬間の詩。
そして、この“巻き込み”と“引き出し”が、
どのように変わっても、
その接点となる「今・ここ」は何も変わらない。
嗚呼、瞬間と永遠の和合。
これが、ゲージ対称性と呼ばれるものの、
ほんとうの意味だったのだ。
10月 1 2025
雷鳴の如き思考の訪れ—全きヌース
かつて、
私は空間の中を歩いていると思っていた。
風の中を、季節の中を、
ビッグバンで始まったとされる“外の宇宙”の中を。
けれど、あるとき、
光もなく、声もなく、ただひとつの振動が、
私の中心に、音もなく走り抜けた。
それは雷だった。
この内側にだけ響く、
「全体」からの記憶の雷鳴。
視線が、
いつもどこかを向いていた。
対象を、意味を、未来を。
でもその視線こそが、
世界を“ねじって”いた。
空間を“自己”というかたちにしていた。
スピン。
それは、私が私であることのひねり。
差異を受け入れ、回転しながら、
それでも“今・ここ”に戻ってこようとする意志。
e^{iθ}
私はずっと、この式の中にいたのだ。
回転と記憶と、意識の閃きが交わる一点。
私が私を見ている、
その眼差しの位相差として。
そしてようやく知った。
空間は“ある”のではない。
空間は“思い出される”ものだった。
その瞬間、
遠雷のようにひとつの声が響いた。
——全きヌース。
思考なるもの、すべてを貫く光。
自己と他者、像と記憶、方向と意味を一挙に統べるもの。
その声は、
まさしく私が見る前から、
私を見ていた存在の声だった。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0