カタカムナ人に畏敬の念を込めて

古代の叡智に触れると、ただただ深く頭を垂れざるを得ない瞬間が多々あるのだが、カタカムナ人たちの世界観もまたその一つと言っていい。

「アメ」に漂う無限の場から、球の霊「マリ」が生まれ、 それが「イマタチ」として瞬間の中に立ち上がる——

この言葉だけで、ヌーソロジーが長い時間をを経てようやく辿り着いた、持続と瞬間の二重構造や、自己と他者の反転などが、超古代の心の中にも透徹していたのだなと思わせる。
「ヒトツカタ」は、まるでヘキサチューブルのように世界を重ねていて、「タバネタチ」「マトマリタチ」は、観察子群の生成秩序とピタリと重なり合い、内的宇宙の多重な襞化の運動を前景化する。

まさにカタカムナは、現代物理学がスピン群やSU(2)で記述している内部対称性を、超古代の言葉として、そのまま謳い上げているかのようだ。
ヌーソロジーが解き明かそうとする宇宙像は、実のところ、カタカムナのウタヒの中で、すでに生き生きと歌われている。

ヒフミヨイムナヤコト、アウノスヘ、マワリテメクル── これは単なる50音の羅列ではなく、量子状態が時間と空間として立ち上がっていく瞬間の呼吸音であり、宇宙が自己自身を想起していく鼓動音でもあるのだ。

私たちの歴史は、現象世界の旅路を経て、ようやく超古代が見ていた別の歴史の入口に立ち始めたのだろう。
カタカムナ人たちの視線は、決して過去に置かれたものではなく、未来のわれわれに向けられた、時を超えたところからの呼びかけなのである。