厳密さよりも、視点の変換を!!

ヌーソロジーをやっていて、つくづく思うのは、あまりにも私たちが物質概念にしがみつきすぎているということ。
例えば——素粒子は本当に「モノ」なんだろうか?

現代の物理学は、とにかく数学に強くなった。公式、関数、行列、空間の次元、ゲージ対称性・・・。言葉より数式。イメージより定理。でもその結果、素粒子の姿が、どんどん見えにくくなっているのではないか?
量子力学も、相対論も、ものすごく成功してきた。けれど、いま私たちが“素粒子”と呼んでいるものって、いったい何を見て、そう呼んでいるのだろうか?
電子も、クォークも、ニュートリノも、数式の中ではたしかに動いている。でもそれって、世界の本当の姿なのか?
もしかすると「素粒子とは、空間の中にある“点のような物体”だ」という考え方自体が、数学という言語が作った一つの“見え方”にすぎないのではなかろうか?

最近は、心底、そう思えてならないのだ。
もしそうなら、もっと“見る”ということ自体を問い直してもいいはずなのだ。素粒子とは、「ある」のではなく、“世界が私自身を見せてくる時の、魂の小さな震え”のようなものではないのか。
この震えを自分と別物のように見ていては、いつまで経っても、素粒子は物質(対象)のままだし、世界もまた自分の外にある怪物のような存在になってしまう。世界とのこんな関係は悪夢であり、それこそ迷路ではないのだろうか。

理性一辺倒の一つ目であるが故に、迷路に入り込んでしまった科学を、もう一度、私たちが実際に“感じる場所”から立て直す。そんな考え方を通して、素粒子を見ることも、そろそろ必要ではないのか?
その意味で言えば、いわゆる専門家よりも、むしろ、一般人としての私たちの方こそが、素粒子に対して正しい捉え方、理解ができるような気がしてならない。