差異と反復………8

 3、その抽出された概念を被造物の根源的要素とも言える光子と結びつけることはできないか。

 さて、ここからが問題の核心に入ってくることになる。ヌース理論とは一言で言えば、意識と物質の統合理論である。統合というからには、それは意識の理論ではあってはならないし、また、物質の理論であってもならない。また逆に、それは意識の理論でなければならないし、かつ、物質の理論でもなければならない。この双方の要請を満たすためには、当然、その思考対象として物質と意識を仲介するための第三の新種の概念が必要となる。それがこのブログでも時折顔を出している「観察子」というヌース理論特有の概念だ。観察子が「観察」という意識的要素と、「子」という粒子的要素を併せ持った名称になっているのもそうした動機付けがあってのことだと思ってほしい。要は、物質構造も意識構造も観察子から成り立っている——そうした考え方のもとに全く新しい宇宙生成論を作り上げたいのである。

 今までの論旨の運びを振り返ってみよう。
 まずはハイデガーが提起した存在と存在者の差異を創造者と被造物の関係と見なした。そして、その関係は被造物の世界では空間という「一」とモノという「多」の関係として現れているのではないかと仮定した。そこで、被造物世界における存在と存在者の差異は空間とモノとの差異として見なされるのではないか、という推論を立てた。そして、この空間とモノの差異を幾何学的に追いかけてみると、結果として、反転した3次元空間の存在が要求されることになった。反転した3次元空間の実質的意味は射影空間の性質を通して、知覚が成立している視野面そのものの在り方であるということが予想できてきた。知覚が立ち上がっている場所はいまだ自己が生まれる前の純粋知覚の場であり、ここは未だ剥き出しの無意識の主体の位置ではないのかという予測を立てた。哲学的議論からすれば、この場所は第一の内在面とも呼べる場所であり、ハイデガーのいう「現存在」たる人間そのものの萌芽の場所となっている。とまぁ、こんな感じになるだろうか。

 このことから、最初に見えていた空間とモノは当然、現存在たる人間が見ているものであるから、本当は、現存在=という差異が先に存在しており、その後、空間とモノという対化が反復のもとに観察に晒されている、ということになる。つまり、外面の3次元が先手で、内面の3次元は後手なのである。差異がまず存在し、その後反復がくる。なぜなら、差異という回転力がなければ反復という振動が起こり得るはずがないからだ。反復は差異の下次元的射影である。このへんの事情は「差異と反復1」に描いた図を見ていただければ一目瞭然だろう。

 君が目の前にモノと空間を認識しているとき、意識はその両者の間を反復している。そして、その反復力の大本となっているのは、それを見つめている君自身の存在なのだ。右行ってぴょん。左行ってぴょん。右行ってぴょん。左行ってぴょん。それに飽きたら上行ってぴょん。下行ってぴょん。下に見えるは、左右のぴょん。あ、ぴょん、ぴょん、ぴょん。おっとさんが呼んでも、おっかさんが呼んでも、ききっこなぁ〜しよ。井戸の周りでお茶碗かいたのだぁ〜れ?

 悪ふざけはこのくらいにして、いよいよ核心に触れなければならない。それは、今まで話してきた差異と反復の幾何学的鋳型をもとに、この構造をどのようにして光子(電磁場)と結びつけるのか、ということである。電磁場は場の量子論によれば、複素平面上の単振動として表せることが分かっている。つまり、電磁場も差異と反復の構造を持ち合わせているわけだ。では、電磁場においては一体何が差異で、何が反復しているのか——まずは、その様子を複素平面上の円運動からチェックしてみることにしよう。 つづく
(今回でこの連載は止めようと思ったけど、トーラスさんからの激励があったので、もちっと続けますたい。)