半田広宣 講演会 in 京都——その3

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~ユダヤ的精神の由来~

「ユダヤ民族とは、現人間次元の核質です。」(OCOT情報)

ヌーソロジーが「ユダヤ的精神」と呼んでいるものがあります。これは単純に、人種や民族の分類的な意味での「ユダヤ人」のことではありません。いわば、ユダヤ民族の精神構造として奥深く根付いている無意識的な潮流としての運動のことを指していると、私は捉えています。

オコツトが告げる民族の発生は違っていて、次のように言っています。

「民族とはヒトの思形が生み出すものです。定質に与えられたノウスの方向。」(OCOT情報)

ヌーソロジー独特の用語が使われていますので、理解するのは容易ではありませんが、そのヒントは、精神分析学者であるフロイトが晩年に著した不思議な著作である『モーセと一神教』にその一端を見ることができるようです。

ユダヤ教はモーセが発明した一神教ですが、彼はそもそもエジプトのイクナートンが作った一神教であるアテン教の一派であり、その一神教をユダヤ人たちに実験したというのです。しかも、そのモーセはユダヤ人たちの手によって殺されたと言いますから、これはなかなか穏やかならぬ内容です。

そもそも古代のエジプトにしろ、ユダヤ周辺にしろ、多神教が主流でした。それがどういうわけかエジプトのアメンホテプ4世の治世(紀元前14世紀半ば頃)のとき、王(ファラオ)自らがアテン神を崇拝し、自らも「イクナートン」を名乗るようになったわけです。彼の作ったアテン教は、世界初の一神教だと言われています。一説には、アメン神を祭る神官勢力が王を抑えるほどの強い勢力になったことを、アメンホテプ4世はよく思っていなかったからだと言います。

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この本によれば、このイクナートンのアテン教の流れを汲むモーセが始めたのがユダヤ教だったということだそうです。それまでユダヤ人はある意味多神教世界において自由に生きていましたが、モーセの始めた教えは規律が厳しく、ついにその不満が爆発し、モーセを殺してしまったというわけです。これこそが「原父殺し」の起源となり、超自我的なものを到来させる契機となりました。つまり、この事件こそが、永遠に亡き父に背くこともできずに、支配・被支配の関係を結ぶ原因になったわけです。ある意味、そう仕向けたのはモーセだったのかもしれません。いずれにせよ、この「父と子の契約」こそがユダヤ教の本質だと言います。

旧約聖書の創造神話に、創造の7日目に神に似せて人間を作ったとありますが、そのとき、人間は神から「名づける力」を与えられ、「主」としての権限を与えられたと言います。ユダヤ人たちが、言語に厳しい契約の民と言われる所以もそこにとてもあると言われます。

ユダヤ人たちの世界史における役割は大きなものがあります。銀行を発明し、科学の中の優秀な力をもたらしたのも彼らだと言われます。実際、前述の精神分析のフロイト、経済学のマルクス、物理学のアインシュタインの3人は、よく世界を変えた3人などともてはやされますが、彼らはいずれもユダヤ人だそうです。

なぜユダヤ人たちが、それほど優秀で、それほどの力を持つようになったかと言えば、それは彼ら自身が「流浪の民」として商売や流通に関わる仕事に携わり、早くから「情報のネットワーク」を構築していたからだと言われます。

そのユダヤ民族の根底を流れる無意識の潮流こそ、ヌーソロジーが「ユダヤ的精神」と称する、人類の根源的な「同一性」のことです。実際、ユダヤ教ではヤハウェなる一者としての神が信仰されますが、これこそが「一なる概念」と結びつきます。

今回の講演でkohsenさんが話された話の中で次のように言った言葉が印象的であり、その奥深さを感じました。

「中間の記憶は絶対的な契約の中で忘却される。」

これはまさしく「父と子の契約」を表していると同時に、自己・他者間の視線の交差の際に起きる奥行きの消失をも意味していると思われます。ある意味、自己が持つ視線の奥行きは、他者が持つ視線の、自己側への到達によって、押し潰されているとも言えます。

ヌーソロジーでは、この「父と子の契約」こそが、オリオンとプレアデスの結合によって、この宇宙が生まれているということを示しており、その宇宙全体を「一」にまとめたものこそが「物質」であると言っているのです。これこそが、同時に、「わたしはわたしだ」という自我の起源でもあるわけです。神道的な言い回しで言えば、モトミタマとワケミタマは一つであり同じものだということになるでしょうか。

(つづく)