ハイデガー哲学の凄さと危うさ

今年の夏、『寄与論考』に触れて以来、ハイデガー本ばかり読んでいる。結構、一度ハマると病みつきになる哲学者だ。
 
最初はハイデガーのいう「本来的歴史性」とヌーソロジーの歴史観とがピッタリとかぶることに驚きをもって読み進めたのだが、数冊読み込んで行くうち、巷間言われているように、ハイデガー哲学の危うさも徐々に皮膚感覚として感じ取れるようになってきた。
 
そんなかんなで、ハイデガー哲学とプラトンの「洞窟の比喩」の関連性について分析した面白い論文を先日、ネットで発見。ヌーソロジーでいう交替化の機序が「洞窟の比喩」に沿って説明されている。ただ、ここでのハイデガーの他者理解はやはり問題があるように思える。
 
ポイントは非本来的自己から本来的自己の取り戻しは、ヌーソロジーの場合、自他の共同性の中にしか起こらないのだけど、ハイデガーの場合は勝手に本来的自己だけが独走して行ってしまうところ。
 
少し難解かもしれないが、ヌーソロジーをある程度知ってる人であれば、論旨は追えるのではないかと思う。ベテランヌーシストは、ヌーソロジーとハイデガー哲学の共通点も意識しながら読んでみるといいかも。

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/book/pdf/no101_05.pdf